尾張国愛知郡中村(銀杏村との説もある)に生まれる。父は織田信秀に仕えたという足軽の木下弥右衛門。
織田家中で頭角を現す以前は、木下藤吉郎といった。
農民の子から関白への道を登りつめた、日本国の代表的英雄で空前絶後の出世者。
年少の頃は今川氏の部将で遠江国久能城主・松下嘉兵衛之綱に仕えていたが、同輩の妬みにあって出奔。そののちに織田信長に仕え、軽卒を振り出しに才能と戦功のゆえに重用された。容貌が猿に似ていたため、信長からは「猿」と呼ばれて寵愛された。
何事においても即断即決を旨とし、また人当たりもよく、巧みな人心掌握術と人材の配置、大胆とも見れる金のばらまき方で好機を逃さず掴み取り、日本国をも握った。
信長の美濃攻めの頃より重用されるようになり、永禄11年(1568)に信長が足利義昭を奉じて上洛したのち、京都奉行を務めている。
天正元年(1573)に信長が浅井氏を滅ぼすと、浅井氏の旧領から近江国に12万石を与えられ、翌年には今浜に築城して地名を長浜と改め、城持ち大名となる。同時に筑前守に叙任された。このときより羽柴姓を名乗るようになった。織田氏宿老の柴田勝家と丹羽長秀に肖ったものという。
信長より中国地方の経略を命じられ、天正6年(1578)の播磨国三木城攻めでは「飢え殺し」と呼ばれる包囲戦を展開し、これを攻略。天正9年(1581)、近江・播磨・但馬国で70余万石という大領を与えられた。
天正10年(1582)6月、備中国高松城攻囲中に本能寺の変勃発の情報を逸早く入手すると、信長の死を隠したままに毛利氏と講和、すぐさま引き返し、自らの主導によって山崎の合戦で明智光秀を撃破、信長の後継者と目された。
のち、信長遺領と織田家中の主導権をめぐって織田信孝・柴田勝家らと対立し、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、続く北ノ庄城の戦いで勝家を滅ぼし、信長の後継者としての地位を確立し、難攻不落と謳われた大坂城の築城に着手した。この年の3月、従四位下・参議に叙任。
天正12年(1584)には徳川家康・織田信雄の連合軍と小牧・長久手に戦い、合戦では勝てなかったが外交戦術をもって臣従させた。
天正13年(1585)3月から4月にかけて紀伊国の雑賀・根来衆を平定、その後には四国を制圧していた長宗我部元親を降し(四国征伐)、8月には越中国の佐々成政を征伐した(越中征伐)。
この年の7月に関白となり、その翌年(1586)12月には太政大臣の位につき、姓を豊臣と改めた。
天正15年(1587)には九州の島津氏を叩き(九州征伐)、天正18年(1590)には小田原の北条氏を征伐し、信長が果たしえなかった天下統一を達成した。
信長の死後はその勢力基盤を手中に収め、織田政権を踏襲しつつも、天皇に次ぐといわれる公卿の最高位・関白の地位に就いた。のち、天皇の権威を後ろ楯に、順調に勢力を拡張した。
天正19年(1591)の暮れ頃に関白の地位を養子・秀次に譲り、自身は太閤と称すようになるが、実権は尚も握り続けている。
その後、中国大陸への進出を目論み、天正20年(=文禄元年:1592)と慶長2年(1597)に朝鮮に出兵するが二度とも失敗した(文禄の役、慶長の役)。
朝鮮出兵中の慶長3年(1598)8月18日、伏見城で没した。享年63。豊国神社に祀る。
余りある財力を背景に、堅固な防御力を誇る大坂城に集約される壮大さ、茶道具に至るまで金造りの黄金の茶室に代表される華美さなど、豪壮絢爛な桃山文化の全盛期を創出した。
政策として『太閤検地』や『刀狩り』などを行ったことは著名。明智光秀を滅ぼした直後から山城国に検地を行い、以後は全国に検地を進めた。1反をそれまでの360歩から300歩とし、田畑の石盛を定め品等を分かち、京枡に一定して石高を算定、また村単位に検地を行い、耕地一筆ごとに名請人を定めるなど、この政策で荘園制に終止符を打った。名主層からは不満の声もあがったが、これにより全国規模で税制が平均化されたといわれる。
また天正16年(1588)の刀狩り令によって武士と農民の身分の分離(兵農分離)を図るが、その目的は農民から武器を取り上げることによって一揆を防ぎ、耕作に専念させるためのものだったといわれる。
これらの政策で武士層だけでなく、大多数を占める農民をも掌握したことにより、政策面においても天下統一を果たしたことになろう。
ポルトガル、スペインとの関係では、天正15年(1587)6月に伴天連追放令を発布し、南蛮貿易とキリスト教布教との分離を目指した。