足利義昭(あしかが・よしあき) 1537〜1597

室町幕府第15代征夷大将軍。在位期間は永禄11年〜天正元年(1568〜1573)。
12代将軍・足利義晴の二男として天文6年(1537)11月3日、京都に生まれる。母は関白・近衛尚通の娘。13代将軍・足利義輝の弟。
はじめ尚通の嫡男・稙家の猶子となって南都興福寺一乗院に入って覚慶と号し、永禄5年(1562)に一乗院の門跡となる。
永禄8年(1565)5月に兄・義輝が松永久秀三好三人衆らに弑された際(室町御所の戦い)に覚慶(義昭)も幽閉されたが、細川藤孝らの援けで一乗院を脱出、近江国に逃れた。
この後に将軍職就任を目論み、永禄9年(1566)2月に還俗して足利義秋と名乗り、4月に従五位下・左馬頭に叙任。
永禄10年(1567)8月末には畿内の争乱から避けるため若狭国の武田義統のもとに動座するが、内訌著しい武田氏を見限って越前国朝倉氏を頼って9月に越前国敦賀に移り、翌永禄10年(1567)1月に朝倉義景の本拠・一乗谷に迎えられた。
永禄11年(1568)4月に義景の加冠によって元服、義昭と名乗りを替える。
義昭はかねてより自分を奉じて上洛するよう義景に求めていたが義景は応じようとせず、同年7月には腰を上げようとしない朝倉氏のもとを離れ、9月に織田信長に擁されて上洛を果たし、10月18日に15代将軍の座についた。
だが将軍権力を復活させて幕府政治を強化しようとする義昭と、将軍を傀儡化して権力を握ろうとする信長とは不和になる。信長は義昭に対して永禄12年(1569)1月に『殿中の掟』、元亀3年(1572)9月には『異見十七ヶ条』といった意見書を発布して動向を規制しようとしたが、義昭は密かに越前国朝倉氏・近江国浅井氏・甲斐国武田氏・石山本願寺らと信長包囲網を形成。
元亀4年(=天正元年:1573)4月に京都で挙兵(足利義昭の乱)するが敗れ、同年7月にも山城国槙島で再挙兵して再び敗れ、当時2歳だった子・義尋を人質に出して信長に降伏、事実上室町幕府は滅亡した。
その後は河内国若江の三好義継に庇護を受けたがのちに紀伊国の興国寺に移り、さらには備後国鞆へと移って毛利氏を頼った。以後は陰から毛利氏や石山本願寺などに影響し、信長を打倒しての幕府再興を目指すも成らなかった。
天正13年(1585)、羽柴秀吉は義昭の猶子となって征夷大将軍に任命されることを望んだが、義昭はこれを拒否。しかし信長の遺業を継いだ秀吉との関係は不仲ではなく、天正16年(1588)初頭には京に招かれ、捨扶持として槙島城1万石を給せられている。
晩年は出家して昌山道休と号した。
文禄の役に際しては肥前国名護屋に駐留。
慶長2年(1597)8月28日、大坂にて没した。61歳。法号は霊陽院昌山道休。