三好義継(みよし・よしつぐ) ?〜1573

十河一存の子。三好長慶の甥にあたる。幼名は熊王丸。初名は重存。義重とも名乗った。左京大夫。河内国若江城主。
父・一存の死後に伯父の長慶に養育され、永禄6年(1563)8月に長慶の嫡子・義興が病死すると三好氏の後継となった。
永禄7年(1564)7月に長慶が病死すると三好三人衆の後見を得て三好宗家の家督を継ぎ、河内国飯盛城主となる。
永禄8年(1565)5月、将軍・足利義輝から諱を与えられて名を義重と改め、左京大夫に任ぜられた。しかしこの後、松永久秀・三好三人衆と謀って義輝を暗殺した(室町御所の戦い)。
この後、三人衆と久秀は断絶して武力衝突にまで至るが、義継は三人衆方に奉じられた。永禄9年(1566)5月には、和泉国堺にて松永勢と戦っている。
しかし永禄10年(1567)2月、松永方に出奔。これは永禄9年8月に平島(阿波)公方・足利義栄が摂津国に移ってくると、次期将軍と目されていた義栄が敬われる反面で義継は冷遇に等しい処遇を受けたため、といわれる。
永禄11年(1568)9月に織田信長足利義昭を奉じて上洛を果たすと久秀と共に降って陪臣となり、翌月には河内国若江城主として河内国の北半国を宛行われた。
永禄12年(1569)3月、信長の媒酌で足利義昭の妹と結婚する。
元亀元年(1570)7月には同族である三好三人衆が摂津国への侵攻を開始し、同年8月より始まる野田・福島の合戦では松永久秀と共に信長方として参戦し、三好三人衆らと戦った。
元亀2年(1571)になると信長が朝倉義景浅井長政・比叡山延暦寺・伊勢国長島の一向一揆などの敵対勢力との戦いに謀殺されている隙を衝いて畿内で三好三人衆の活動が活発になると、義継もこれに与するようになり、反信長戦線の一翼を担った。
元亀3年(1572)4月には河内国に畠山昭高を逐って信長と戦い、8月には石山本願寺と共に細川昭元を摂津国中島に攻め、天正元年(1573)7月には信長に叛いて敗れた足利義昭を保護している。
しかし同年11月、信長の家臣・佐久間信盛に若江城を攻められ、16日に織田方に応じた家老の謀叛にあって落城が明らかとなると、壮絶な自刃を遂げた。