元亀元年(1570)6月の姉川の合戦に勝利した織田信長は、7月4日に上洛して戦勝報告を行い、7日には根拠地である岐阜に戻った。
しかしこの月の21日、かつて信長によって畿内より逐われた三好三人衆が三好康長・篠原長房・十河存保らの協力を得て、阿波国より和泉国に渡海して進撃、摂津国中島の天満森に布陣した。その数1万3千人、その中にはのちに本願寺に助勢して信長を苦しめる雑賀孫一(鈴木重秀)も加わっていたとされる。三好勢の盟主には管領家の嫡流である細川昭元が擁され、紀伊国の雑賀衆や、かつて信長によって美濃国より逐われた斎藤龍興もこの軍勢に加わっていた。
この三好勢は進軍を続け、8月に入ると信長方の摂津国伊丹城の伊丹親興を攻めた。かつての所領を回復し、京都侵攻への足がかりとするためのものであった。さらに三好勢は石山本願寺にほど近い野田と福島に砦を築いた。摂津国池田城では池田知正(重成)がこれに同調し、さらに淡路国からは三好一族の安宅信康も駆けつけ、尼崎に陣取った。摂津国に反信長勢力が結集したのである。
将軍・足利義昭はこの事態を岐阜の信長に連絡する一方で、畿内の守護らに三好勢の追討命令を下した。これに応じた河内守護の三好義継・畠山昭高(高政との説もある)は河内国古橋城で三好勢の侵攻を食い止めようとしたが、支えきれずに陥落。大和国の松永久秀も大和・河内国境の信貴山城に移って、ここを拠点として迎撃する態勢を作ったが、後方で筒井氏や箸尾氏らの国人衆が蠢動する恐れがあったため、積極的に打って出ることができなかったのである。
この三好勢の動きを知った信長が大兵を率いて岐阜を発向したのは、8月20日になってのことだった。23日に京都に入り、休息した後の25日より進軍を再開、26日に野田・福島から5キロほど南方の天王寺に本陣を置き、先陣部隊を天満・川口・渡辺・神崎・難波などに配置し、野田・福島の砦を遠巻きに包囲したのである。
それまで劣勢にあった畿内守護らの軍勢だったが、4万ほどの兵力を持つ信長の到来により俄然活気づき、これに対して砦に籠もった三好勢は兵を出すことなく、籠城戦に臨む構えを見せた。
8月30日には信長の要請を受けて義昭自ら出陣し、9月2日に摂津国中島の堀城に入城する。8日になると三好義継と松永久秀が海老江を攻略する。翌日には信長が本陣を天満森へと進め、包囲をより緊密なものとした。12日には信長と義昭はさらに進んで海老江城に入り、砦攻めの軍勢を督励した。
双方共に激しい鉄砲攻撃の応酬に明け暮れていたが、徐々に包囲網を狭められたことによって三好勢は進退窮まり、風前の灯火と化していた。ついには三好方から和睦を要請する使者が派遣されたが信長はこれを無視し、三好勢を徹底的に叩く姿勢を明らかにしたのである。
しかしその日の夜半、石山本願寺が挙兵した。本願寺法主・顕如は、この幕府(織田)勢力と三好勢力の抗争には中立を保つ姿勢を取り続けていたが、以前より信長とは不仲であったこと、位置的にも、それまでの経緯から見ても、三好勢の次の標的にされることは明らかということを憂えて決起に踏み切ったのである。顕如は、信長が摂津国にまで出張ってきた9月初旬より最後の手段としての決起に備えていたのだった。また三好勢も、この本願寺をも巻き込む目論見があって野田・福島を拠点と定めたのかもしれない。いずれにしても、結果的には三好勢は石山本願寺の参戦によって窮地を凌ぐことができたわけである。
そしてこの日より織田信長と顕如の長い長い戦いが始まったのである(石山合戦)。
14日より織田勢と石山本願寺は交戦状態となった。信長に敵対することを表明した本願寺の参戦により、形勢は織田勢に不利となった。これを見て取った信長は16日に一時休戦し、本願寺との和睦交渉に入った。その内容は定かではないが、結局は決裂し、20日は戦闘が再開された。依然として本願寺優勢は変わらず、22日に至って信長は海老江より天満森へと退いた。
またこの間にも琵琶湖西岸より朝倉・浅井勢が侵攻、信長属城の宇佐山城を封じて京都を窺う様相を見せた。信長は朝倉・浅井勢を抑えることが先決と判断し、摂津国での戦いから撤退することを決め、即座に京都まで兵を退いたのである。
この後、息を吹き返した三好方は瓦林・茨木城を攻略して気勢をあげたが、この年の暮れには朝廷の仲介で信長と和議を結んだ。