鈴木重秀(すずき・しげひで) 1546?〜1586?

紀伊国雑賀衆の有力者。鈴木左大夫の末子と伝わるが不詳。雑賀荘の妙見山に雑賀城を築き7万石を領す。
三本足の八咫烏(やたがらす)を紋章に、織田軍の攻撃を受ける石山本願寺に、元亀元年(1570)から天正8年(1580)にかけての石山合戦において鉄砲2千挺ともいわれる火力を誇る雑賀・根来門徒宗を率いて加勢し、織田信長を大いに悩ます。
とくに天正5年(1577)2月、信長は15カ国より10万人にも及ぶ兵を動員して、雑賀荘に攻め込んだが(雑賀征伐)、重秀は左右から鉄砲を撃ちかける戦術でこれを撃退したという。
石山本願寺の開城後は本願寺と信長方との取次ぎ役を勤め、天正12年(1584)頃には羽柴秀吉に仕えていたらしく、翌年(1585)の秀吉による紀伊征伐にも従っていたようである。
雑賀孫一(孫市)と通称されて伝説的な粉飾に覆われた人物で、不詳な点が多い。ともすれば一族の左大夫や重朝などと混同されているふしもある。