雑賀(さいが)征伐

雑賀とは、地理的にいえば紀伊国海部郡の雑賀荘を指すが、雑賀衆といった場合には三緘(みからみ)と呼ばれる宮郷・中郷・南郷、それに名草郡十ヶ郷を含めた5つの荘や郷の地域連合体の総称として捉えられる。彼らは農業・漁業だけではなく諸国との交易も積極的に行い、独自の発展を遂げていた。またその経緯は不詳であるが、高価であるが殺傷能力の高い鉄砲を多数取り揃え、諸大名の要請に応じて合戦に参加することで報酬を得る、いわば鉄砲傭兵集団としても名を馳せていたことは有名である。
この雑賀衆には真宗(一向宗)門徒が多く、経済的にも軍事的にも石山本願寺に加担していたため、本願寺と敵対する織田信長の憎悪の対象となっていたのである。
ただ、雑賀全体が本願寺を支援したわけではなく、雑賀孫一(鈴木重秀)に率いられた雑賀荘の者と十ヶ郷のみが一貫して本願寺に味方していたのだといわれており、この組織は雑賀衆の中でも勢威が盛んであったと伝わる。
天正5年(1577)2月2日、信長がかねてより裏工作を進めていたのが功を奏し、三緘衆と根来寺の杉の坊を内通させることに成功した。これを契機として信長は石山本願寺との戦い(石山合戦)における手詰まりを打破すべく、雑賀征伐という軍事行動に出たのである。

この雑賀征伐には、信長の嫡男・信忠が美濃・尾張両国より大軍を率いて参陣。二男の信雄、三男の信孝も近江国・伊勢国などの兵を引き連れ、その他にも越前・若狭・丹後・丹波・播磨諸国からも軍兵が集められ、その総数は10万余ともいわれる。
2月9日、信長は安土を発してその日のうちに京に入る。13日に京を出陣し男山八幡・若江を経て、16日には和泉国の香庄に着陣した。翌17日、信長は杉の坊と三緘衆と合流して雑賀表への案内役に据えると、18日に佐野、22日には志立(信達)へと軍勢を進めた。
信長はここから軍勢を二手に分け、山方と浜手に進軍した。山方は佐久間信盛羽柴秀吉荒木村重別所長治・別所重宗・堀秀政らで、杉の坊と三緘衆の先導で進んだ。浜手からは滝川一益明智光秀丹羽長秀細川藤孝筒井順慶らで、淡輪口から海沿いに進軍。これに信忠・信雄・信孝ら一族衆が続いた。
これに対して雑賀衆は、浜手からの軍勢には孝子峠とその麓の中野城に兵を置いて守り、山方の軍勢には和歌ノ浦にほど近い雑賀城を本拠として、小雑賀川(和歌川)沿いに砦を構築して待ち構えた。
浜手勢は淡輪を過ぎて孝子峠へと進むと軍勢を3手に展開、ここを守る雑賀衆を撃破するとその勢いで中野城へと押し寄せ、2月28日にこの城を陥落させるとその勢いで本拠・雑賀城を目指す。
一方の山方からの軍勢は、雑賀城を衝くために紀ノ川と小雑賀川に囲まれた地域を目指して南下、川岸に布陣した。しかし、織田勢はここで予期せぬ損害を被ることとなる。
雑賀衆は織田勢の来攻以前に川を干し上げ、川底に桶や壷などを埋めておき、さらには縄を張りめぐらせるという工作を施していたのだ。こうして罠を張ったあとに川水を通しておいたため、見た目には全くわからない。そうとは知らずに勇み立って渡河しようとした織田勢の人馬は足を取られ、慌てふためいて立ち往生したところを雑賀衆自慢の鉄砲攻撃によってさんざんに撃ちすくめられてしまい、それ以降は攻め入る隙を見出せずにいた。
3月1日には浜手勢も到着して雑賀城を囲んだが、やはり攻め入ることができず、せめてもの攻撃行為として各所に放火して回ることくらいしかできずにいた。しかし少数である雑賀衆の方でも打って出ることもできず、戦線は膠着状態となった。
そして3月15日、雑賀衆の鈴木孫市(重秀)・土橋守重ら主だった武将の7人が、信長に降参する旨の誓詞を差し出したことによってこの戦いはひとまずの終結を見る。信長としては、この軍勢を雑賀に張りつけておくよりも他の地域に派遣したいという目論みがあり、雑賀衆側としてもいつまでも持ちこたえることができないという予見から、双方の利害が一致したのであろう、わりと短期のうちに講和が成立したのである。
この和睦においては、雑賀衆の降参という形になっている。しかし雑賀衆には充分な余力が残されていたことから、この降参は「講和のための体裁」であると見られている。事実、この年の8月には雑賀衆が再起、三緘衆への報復攻撃を始めている。