荒木村重(あらき・むらしげ) 1535〜1586

摂津国の出身。波多野義道の子孫と伝わるが、その経緯は不詳。荒木義村(または高村)の子。通称は弥助。従五位下・摂津守。
幼い頃から力が強く、12歳のとき、碁盤の上に父を乗せ、盤の脚を持ち上げて座敷をひとまわりしたという。
はじめ摂津国豊島郡池田城主・池田勝正に属していたが、勝正が畿内に進出した織田信長に降ったことで村重も信長に属すこととなった。
のち、池田氏の内紛に乗じて勢力を広げ、天正元年(1573)に摂津国茨木城主となった。また同年、信長が足利義昭を摂津国の宇治槙島城に攻めた(足利義昭の乱:その2)ときに従軍して功を挙げた。
天正2年(1574)に伊丹親興を攻め滅ぼしてその居城であった摂津国河辺郡の伊丹(有岡)城を奪って城主となり、信長から摂津一国を与えられ、従五位下・摂津守に任ぜられた。
以後は信長麾下の有力武将として天正3年(1575)の播磨国浦上氏攻め、天正5年(1577)の紀伊国雑賀征伐などの諸戦に従軍したが、石山合戦中の天正6年(1578)10月、突如として敵対していた毛利氏・石山本願寺と結んで信長に叛き、有岡城に籠城した。
これは村重の配下武将・中川清秀の軍中に、兵糧の乏しくなった石山本願寺に密かに米を売却していた者があるとの風説が流れたため、その釈明に赴こうとしたところを清秀に「信長に処刑される」であろうとの勧告を受け、ついには叛逆を決意したとされる。
当時の村重は摂津方面軍司令官といった重要な役どころにあり、柴田勝家明智光秀羽柴秀吉滝川一益佐久間信盛などと並ぶ威勢を誇っていた。この突然の謀叛に信長は驚愕し、明智光秀や松井友閑を使者に送り、翻意を促した。説得に赴いた黒田孝高を幽閉したのはこのときである。
織田勢はなおも勧告を続けるが村重はそれに応じようとはせず、10ヶ月余の籠城の果ての天正7年(1579)9月、単身で子・村次(別名:村安)の守る尼崎城に逐電した。城主を失った有岡城は11月に陥落するが、この村重の行動に激怒した信長は、有岡落城によって捕えられた村重の妻子や一族郎党の6百余人を尼崎の七松で虐殺したという。
12月には尼崎城から花隈城に逃れたが、花隈城も池田恒興・元助・輝政父子ら織田勢の包囲を受けて天正8年(1580)7月に落城。ここも逃れて毛利氏を頼った。
このとき剃髪して道薫と号す。
信長の死後は堺に住み、天正14年(1586)5月4日、堺にて病死した。52歳。法名は秋英道薫居士。
村重は茶人としても有名で、晩年に秀吉に仕え、茶人・千利休の門弟となった。