明智光秀(あけち・みつひで) 1528?〜1582

通称は十兵衛。美濃国土岐氏の流れを汲む明智光国(光綱・光隆とも)の子と伝わるが不詳。前半生の経歴も不明で、はじめ美濃国明智城にいて斎藤氏に仕えていたとする説もある。
諸国流浪ののち、永禄5年(1562)頃に越前国の朝倉義景に仕えた。鉄砲射撃の技術を買われてのことだったという。
永禄10年(1567)に三好三人衆らに弑された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟である足利義昭が、近臣の細川藤孝らと共に朝倉義景が居する越前国一乗谷に落ち延びてきたことから、義昭に臣事することになる。義昭を上洛させるために奔走、ここで尾張国の織田信長と接触を持ち、以後は信長と義昭に両属することになる。光秀は他の織田家武将にはない外交官的な感覚に優れていただけでなく、戦略・砲術・行政・築城など多種多様な才で重宝された。
永禄11年(1568)9月に信長が義昭を奉じての上洛したのちには、村井貞勝と共に幕府奉公衆や公家衆などとの交渉にあたるなど、奉行として京都の庶政を管掌した。
元亀2年(1571)に近江国滋賀郡に5万石を与えられて坂本城主となり、天正3年(1575)7月には九州の名族・惟任(これとう)の姓を受け、従五位下・日向守に任ぜられて「惟任日向守」と称される。ついで丹波国の平定に出馬し、丹波国の有力武家・波多野氏らを降した。その最中の松永久秀荒木村重の謀叛鎮圧にも従軍。その功を賞され、天正8年(1580)8月には丹波国29万石を加増され、丹波亀山城主となった。9年(1581)には丹後国でも加増されている。
天正10年(1582)3月、武田征伐に従軍。5月に信長の居城・近江国安土城において徳川家康らの接待役を勤める途中、中国地方で毛利勢と対峙する羽柴秀吉軍の後詰を命ぜられた。その準備を整え、軍勢を率いて居城の亀山城を発したが、途次の老の坂より京へと転じ、京都本能寺に宿営していた信長を急襲、これを討ち果たした。天正10年6月2日払暁のことで、世に言う「本能寺の変」である。ついで、同じく京にあった信長の嫡子・織田信忠をも討つ(二条御所の戦い)。
その後はすぐに京都やその周辺を掌握したが、簒奪した政権を固める余裕もないままに、「中国大返し」と呼ばれる強行軍で引き返してきた羽柴秀吉軍と対決することとなり、頼みとしていたかつての与力武将である細川藤孝・忠興父子や筒井順慶の援助を得ることができず、13日の山崎の合戦で敗れ、坂本城へ向けての敗走中に小栗栖で農民の手にかかって殺された。55歳という。法号は秀岳宗光。
故実や典礼に通じ、茶の湯、連歌に優れ、文化人との交わりも深く、たびたび連歌会、茶会を催した。また優れた民政家でもあり、天正8年(1580)の大和国など各地の検地奉行を勤め、さらには精緻な軍規を定めるなど、織田家中ではもっとも教養が豊かな武将であったという。