織田信忠(おだ・のぶただ) 1557〜1582

織田信長の長男。尾張国清洲城に生まれる。母は生駒氏。幼名は奇妙丸。のちに管九郎(勘九郎)と称した。秋田城介・従三位・左近衛権中将。
元亀3年(1572)1月に元服、初名は長重。7月の朝倉攻めが初陣。こののちも父・信長に従って近江国小谷城の浅井長政を攻める。
天正2年(1574)、名を信忠と改める。また、従五位下に叙された。
天正3年(1575)、長篠の合戦に従軍して勝利した。その余勢を駆って美濃国岩村城に武田方の秋山信友を攻撃し(岩村城の戦い)、武功を挙げる。
天正4年(1576)に信長が安土に移ったあと岐阜城主となり、美濃・尾張の2国を与えられた。
天正5年(1577)には雑賀衆征伐、大和国信貴山城の松永久秀攻め(信貴山城の戦い)、6年(1578)には播磨攻略、7年(1579)には謀叛を起こした荒木村重の討伐や石山合戦など、信長の直属部隊として多くの戦いに参与した。とくに天正10年(1582)2月からの武田征伐においては主力として大軍を率いて信濃・甲斐に進出し、並々ならぬ武功があった。
同年6月、中国経略を進めていた羽柴秀吉を救援するための出陣の途中で京都妙覚寺に泊まっていたが、そこで本能寺の変に遭遇。信長のいた本能寺を救援しようとしたが果たせず、約5百名の家臣と共に二条御所に陣を移し、誠仁親王らを避難させたあと明智光秀軍と戦い(二条御所の戦い)、敗れて火を放って自刃した。26歳。法名は大雲院仙巌。