秋山信友(あきやま・のぶとも) 1527?〜1575

武田家臣。秋山信任の子。別称を虎繁。晴近と称されたともされる。伯耆守。武田信玄の代の侍大将。
天文11年(1542)、諏訪攻めにおいて敵将・千野南明庵を討ち取るという華々しい初陣を飾り、続く福与城の攻城戦では一番乗りの功名を挙げた。この働きにより、それまでの近習衆より50騎持の侍大将に抜擢されると同時に、信玄(当時の名乗りは晴信)より「信」の一字を与えられて信友と名乗るようになったという。
信玄からの信頼は厚く、天文16年(1547)より信濃国伊那郡代に抜擢され、天文23年(1554)頃より要衝・伊那郡高遠城の城将となり、もっぱら伊那谷の守衛にあたった。また、弘治元年(1555)8月には武田方の総大将として木曾義康・義昌父子の拠る木曾福島城を陥落させて和睦を図り、所領を接する織田氏との折衝においても、信玄の六女・松姫と織田信長の嫡男・信忠との縁組成立にも尽力するなど、優れた外交手腕を発揮している。
元亀3年(1572)の武田軍西上作戦のおりの三方ヶ原の合戦では山県昌景隊とともに徳川家康軍を敗走させ、家康をして「武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言わしめた。
この戦いの後に信玄が陣中で病没したため武田勢は自国へ引き上げたが、信友は病死(あるいは戦死)した美濃国岩村城将・遠山景任の室(信長の叔母にあたる)に求婚するという奇策を用いて、織田勢力だった岩村城を武田勢力に収めるという才知を見せた。信玄の死去後も岩村城にあって、明智城ほか数城を陥落させて信濃・美濃国境付近の防備を固めた。
天正3年(1575)の長篠の合戦後、織田信忠を総大将とする2万の軍勢に包囲されるが半年間に亘る籠城戦に耐えて攻防を繰り返したが(岩村城の戦い)、甘言に乗って開城して捕えられ、11月20日に長良川畔で磔刑に処せられた。享年49か。