岩村(いわむら)城の戦い

武田・織田勢力の境界に位置する岩村城は、東美濃における織田方の要衝であった。城主・遠山景任の妻は織田信長の叔母にあたり、この夫婦には子がなかったので信長は子・御坊丸(勝長)を養子として預けていた。それだけこの岩村城を重要視していたということだろう。
元亀元年(1570)に武田信玄は、家臣の秋山信友に命じて岩村城を攻めさせた。景任はよく守り通したが、その後に病死(一説では戦死とも)してしまったのである。
その2年後の元亀3年(1572)の秋、秋山信友は再び岩村城攻略に乗り出した。が、城方の守りは堅く、未亡人の岩村御前以下城兵が一丸となって防戦に努めたので、秋山勢は攻めあぐねた。そこで信友は一計を案じ、岩村御前に結婚を申し込んだのである。はじめは拒否していた岩村御前もついにはこれに応じ、和議を結んで開城した。こうして岩村城は武田勢力とり、しかも、御坊丸を人質として甲府に送ってしまったのである。
岐阜から15里ほどしかない岩村の地を失い、喉元に刃を突きつけられたも同然となった信長は岩村城の奪回を試みるが、城の守りは堅く、陥落させることができずにいた。
しかし元亀4年(=天正元年:1573)に武田信玄が病没し、その名跡を継いだ武田勝頼長篠の合戦で破ると、東美濃においても武田・織田の勢力関係も逆転、織田勢が優位に立つことになった。信長は長篠の合戦直後の天正3年(1575)6月より、岩村城を奪還するために嫡子・信忠に3万の兵をつけて攻略に向かわせたのである。
しかし天嶮の要害を頼む岩村城は容易に攻め手を寄せ付けず、城攻めは難航した。このため信忠は力攻めを諦めて、兵糧攻めで城兵が弱まるのを待つという作戦に切り替えた。
武田方にとっても、西方へ進出するための足がかりとして重要な位置を占めるこの城を守るため、勝頼は援兵を送ったのである。
しかし11月11日、大きな動きが起こる。
織田勢は岩村城に向かい合う水晶山に布陣していたが、城方はこの水晶山に夜襲をかけ、織田軍が混乱したところを城内からも打ち出して挟撃するという作戦を試みた。しかし、織田勢は事前にこれを察知し、逆に信忠配下の河尻秀隆・毛利長秀らが武田勢の夜襲部隊に先制攻撃を仕掛けて討ち果たし、さらに城内から突出してきた本隊にも猛攻をかけて壊滅的な打撃を与えたのである。この合戦において城方は物頭級の武士21人が討死したのをはじめ、多数の兵が死傷したという。この敗戦で秋山信友も岩村城を守り通すことは不可能と判断し、21日、城兵の助命を条件に降伏を申し出たのである。
信忠はこれを受け入れる旨を告げ、岩村城は開城となったが信友以下の主だった将は捕えられ、岩村御前と共に岐阜に護送され、長良川の河原で磔刑に処された。