織田勝長(おだ・かつなが) 1565?〜1582

織田信長の子。五男か。幼名は坊丸(御坊丸)。母は不詳である。生年についても明確な資料に乏しい。通称は源三郎。津田源三郎とも称す。近年の研究では、実名は信房であるともされる。
元亀2年(1571)頃、美濃国岩村城将・遠山景任の養子となる(景任夫人は信長の叔母にあたる)。しかし元亀3年(1572)に景任は病没し(戦死とも)、さらに同年の秋頃には岩村城が元亀3年(1572)に武田方の秋山信友に攻められ、その策謀によって陥落すると(岩村城の戦い)、坊丸は人質として甲斐国の躑躅ヶ崎館に送還された。
天正8年(1580)3月までには元服していたとみられ、花押も武田信玄勝頼に酷似した武田様であることから、人質でありながらも丁重に養育され、武田氏の影響を強く受けて成長したと推察される。
天正9年(1581)11月、武田・織田の人質交換にて安土城へと帰還(年次に異説あり)。のちに織田勝長と名乗り、尾張国犬山城主となった。
天正10年(1582)の武田征伐においては兄・信忠に従って信濃国高島城攻めや上野国方面への侵攻などに従軍した。しかし同年6月、京都で信忠の軍勢に属して明智光秀と戦って(二条御所の戦い)戦死した。18歳だったとも伝わる。