武田信玄(たけだ・しんげん) 1521〜1573

甲斐国の守護大名。武田信虎の嫡男。母は大井信達の娘。実名は晴信。大膳大夫・信濃守。
大永元年(1521)11月3日に生まれる。幼名は勝千代。通称は太郎。入道して徳栄軒信玄と号すのは永禄2年(1559)2月のことである。
天文2年(1533)に扇谷上杉朝興の娘を妻として迎えるが、その妻は翌年に懐胎死去している。のちに後妻として公家・三条公頼の娘を迎えた。この夫人の姉は細川晴元に嫁し、妹は本願寺法主・顕如の夫人である。
天文5年(1536)3月に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴の諱を受けて晴信と名乗る。また、この年に従軍した信濃国佐久郡の海の口城の戦いが初陣といわれる。
天文10年(1541)6月、父・信虎を駿河国に逐って家を継いだ(武田信虎追放事件)。この父を逐った理由であるが、苛烈な信虎の性格や政策によって家臣や領国の人心が離れていくのを憂えたためとも、信虎が家督を弟の信繁に譲ろうとする動きを察知したため、などと諸説ある。
この家督相続直後より信虎による信濃国への侵攻策を継承し、天文11年(1542)には妹婿である諏訪頼重を攻めて諏訪地方を併合し、天文14年(1545)には高遠城、ついで福与城を攻略して(高遠城の戦い福与城の戦い:その2)下伊那を制圧した。続いて北信濃の有力領主である村上義清小笠原長時を逐い、天文24年(=弘治元年:1555)には木曾義康を降伏させ、信濃国の大半を支配下に収めた。
越後国の上杉謙信との5度に亘る抗争として広く知られる「川中島の合戦」は、信玄に所領を逐われた北信濃の諸将が、謙信に擁護と所領奪回を依願したことに端を発するものである。
永禄4年(1561)以降は上野国西部へも進出して謙信と対戦しており、さらには飛騨国や美濃国東部へも侵攻している。
天文21年(1552)11月に今川義元の娘を嫡男・義信に娶り、23年(1554)12月には娘を北条氏康の嫡男・氏政に嫁して甲駿相三国同盟を結んでいたが、今川義元が永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で敗死するとしだいに政策を転換していき、侵略の矛先は今川領へ向けられることになった。永禄8年(1565)に義信を廃嫡、幽閉するという内訌を起こすが(武田義信幽閉事件)、この今川攻めとの関係は不明瞭である。永禄11年(1568)末に義元の子・今川氏真を攻めて逐い、その領国であった駿河国の併呑を目論んだ(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。これ以後、氏真を援けた北条氏とも敵対することになる。
これにより背後を脅かされることを憂えた信玄は織田信長と接近、その同盟者である徳川家康を北条氏に対抗させるよう画策している。
元亀2年(1571)に北条氏との和睦が成ったことで後顧の憂いが払拭されると、外交戦略によって上杉謙信を越後国に釘付けにしたうえで再び西進策を企て、元亀3年(1572)より遠江国・三河国に出兵して徳川家康、そしてその背後に控える織田信長を圧迫した。さらに信長と不仲であった朝倉義景浅井長政・(本願寺)顕如・足利義昭らと結ぶことによって大規模な織田信長包囲網を構築し、同年10月より3万の兵を率いて西進を開始した。
その進軍途中、12月の三方ヶ原の合戦で徳川家康と織田勢の連合軍を撃破。しかしその翌年の元亀4年(=天正元年:1573)に病に倒れ、帰国途中の4月12日に信濃国伊那郡駒場で死去した。享年53。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。死因は労該(肺結核)とされている。
信玄は天文16年(1547)に『甲州法度55箇条』と呼ばれる具体的な分国法を作り、「信玄堤」と呼ばれる堤防を築くなどの治水・治山を行うことで産業開発にも力を入れ、交通制度の整備、城下町を建設するなど、民政にも努めた。
領内の金山開発にも意を注いだ。日本で最初に金貨を流通させたのは信玄で、「太鼓判」と呼ばれるこの小判は品質も最良のものという。その一方で甲州流の組織的な集団軍法を創始、戦国最強とも謳われる強大な騎馬軍団をも編成した。
信玄の領国は6カ国にまたがり、越中・飛騨・武蔵なども武田氏の軍事的与国であった。また、和歌や詩文にも通じ、文武両道の名将であった。