諏訪頼重(すわ・よりしげ) 1516〜1542

信濃国諏訪郡の領主。刑部大輔。安芸守。諏訪地方の古い名族で、諏訪上社大祝(おおほうり)頼隆の子。諏訪頼満の孫。幼名は宮増丸。刑部大輔。
永正17年(1520)、5歳で諏訪上社大祝となり、翌年には母の死により退職したが、再び復任して享禄2年(1529)まで在任した。
享禄3年(1530)の父・頼隆、天文8年(1539)12月には祖父・頼満の死没を受けて家督を相続した。
所領を接する武田信虎と抗争を繰り返したが、天文9年(1540)に信虎の娘を娶り、以後は小康が保たれた。
天文10年(1541)5月、更科郡葛尾城主の村上義清とともに武田信虎に協力して小県郡海野城主・海野棟綱を攻めて上野国に逐うが(海野平の合戦)、7月に海野氏を支援して関東管領・上杉憲政の軍勢が侵攻すると、これを受けて武田・村上氏は撤退したが、頼重のみは上杉氏と単独講和を結び、領土の分割協定をも結んだため、武田氏らと断絶することとなった。
天文11年(1542)に頼重の同族である高遠頼継や上社禰宜(ねぎ)の矢島満清らと結んだ義兄・武田信玄に突如として攻められ、居城の上原城を捨て、詰の城である桑原城に籠もったがここでも支えきれず、7月4日に開城降伏した(桑原城の戦い)。
捕われて甲府に連行され、幽閉されたのちに板垣東光寺で自刃させられた。7月21日のことであり、享年27だった。「おのづから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそ又も結ばめ」と辞世の句を残す。法名は頼重院一気道洪禅定門。
頼重の娘は天文14年(1545)に信玄の側室となり、のちに武田氏当主となる武田勝頼を生んだ。