天文10年(1541)6月に実父である武田信虎を国外に追放(武田信虎追放事件)して武田氏の当主となった武田信玄だったが、信濃国への勢力拡張路線は継承し、諏訪郡の侵攻に乗り出す。諏訪の領主は信玄の妹の夫・諏訪頼重であったが、その縁戚関係以上に、豊潤な穀倉地帯である諏訪領を渇望したものと思われる。
この頃の諏訪では、諏訪大社の上社を支配する諏訪一族と下社の金刺氏が対立しており、上社の内部でも諏訪氏と同族の高遠頼継が対立し、さらには上社禰宜・矢島満清も諏訪氏に反発していた。
信玄はこの内訌に着目して諏訪への侵攻を企て、反諏訪勢と密約を結び、天文11年(1542)4月に甲府を出立して同月29日には信濃国に進み、御射山に陣を布いた。この信玄の出陣を6月29日とする史書もあるが、これは頼重が武田勢の侵攻を認知した日とされる。武田勢は2ヶ月ほど御射山の陣に駐留したのちの7月2日に侵攻を開始したのである。
諏訪勢はこれを迎撃するため上原城から出陣、1日に矢崎原に布陣しており、2日には筒口原で両軍が対陣した。しかし武田勢に与した高遠頼継が杖突峠から迂回して諏訪勢の背後を衝く動きを見せたため、詰めの城である桑原城まで撤退した。これに際し、居城であった上原城には火をかけて捨てている。
しかし3日には桑原城も高橋口から武田勢、大熊口からは高遠勢の圧迫を受けて包囲される。城兵もよく戦って城を支えたが、この一連の攻防戦において諏訪方の重臣である千野伊豆入道・千野南明庵らも討死を遂げ、大勢が決すると城兵は四散し、落城は免れ得ないものとなった。
翌4日、頼重は信玄の申し入れた和議を受諾して降伏開城した。この和議の条件については不詳であるが、短期日のうちに応じていることから、助命などの好条件が示されたと推察される。武田氏と和睦して共に高遠頼継と戦うことを約したともいわれる。
しかし上原・桑原の両城は武田勢に接収され、城を出た諏訪頼重・頼高兄弟は捕えられて甲府へと護送され、東光寺に幽閉されたのちの7月21日に切腹を命じられた。
この後、諏訪郡は宮川を境として東が武田領、西が高遠領とされた。