天文10年(1541)6月、甲斐守護の武田信虎が、その嫡子である晴信(のちの武田信玄)によって、所領から追放されるという事件が起こった。
これは晴信と晴信擁立派による一種のクーデターで、信虎が娘婿の今川家へと出向いているときに帰路を封鎖、そのまま甲斐国から強制的に退去させられた。
結局、信虎は晴信の存命中は甲斐国の地を踏むことはできなかったという。
晴信が信虎を追放するまでに至った経緯については、領民が信虎の領国経営に不満を募らせていたためとするものや、武田家の家督を二男・信繁に譲ろうとしていたため、などの説がある。