諏訪頼満(すわ・よりみつ) 1480〜1539

信濃国諏訪氏第17代。諏訪上社の惣領家・諏訪政満の二男。諏訪信満の孫。幼名は宮法師丸。号は碧雲斎。
諏訪氏は康正2年(1456)に俗事を差配する惣領家の諏訪信満と、神事を司る大祝家の諏訪頼満(大祝頼満:この項目の頼満とは同名異人)が対立して以来、惣領家は上原に拠り、大祝家は前宮に残って分裂状態となっていたが、文明15年(1483)1月、父の政満と兄の宮若丸が大祝家の諏訪継満(大祝頼満の子)に前宮神殿に招かれて謀殺されると、この継満の行為に不満を持った諏訪一族によって擁立され、惣領家を継ぐとともに、翌年までには大祝職にも就いて祭事(大祝家)と政事(惣領家)の職掌を司った。
永正15年(1518)には萩倉の要害に籠もる諏訪下社の大祝・金刺昌春を攻めて没落させ、信濃国の諏訪地方を統一し、戦国大名化した。
享禄元年(1528)8月、金刺昌春を庇護していた甲斐国の武田信虎の侵攻を受けるが、8月晦日に甲斐・信濃国境の境川で戦って撃退している(神戸・境川の合戦)。また、享禄4年(1531)には信虎に叛いた今井信元らを支援して出陣する(塩川河原の合戦)など、享禄年間以降に武田氏と数度に亘って交戦したが、天文4年(1535)9月に和議を結んだ。
天文8年(1539)11月、背中に腫れ物ができ、それがもとで12月9日に没した。享年60。
嫡子の頼隆は享禄3年(1530)に没していたため、家督は嫡孫の頼重に継承された。