塩川河原(しおかわがわら)の合戦

甲斐国の守護大名・武田信虎は、家督をめぐって起こった分裂抗争を永正5年(1508)に終結させ、永正14年(1517)までには国内の有力領主らの大半を従属させて甲斐国をほぼ統一した。
とはいえ、未だ反感を抱く領主も少なくなく、信虎が永正16年(1519)末に守護所を新国府(甲府)に新造した躑躅ヶ崎館に移してその城下に国人領主を集住させようとすると、翌年5月に栗原信友・今井(浦)信是・大井信達らが兵を挙げてこれに反発している。
そのような情勢の中で信虎は信濃国に目を向け、大永7年(1527)6月に信濃国に出兵している。これは信濃国佐久郡前山城主の伴野氏が援けを要請してきたことに応じたとされるが、肥沃な信濃国を望んだということもあったのだろう。信虎は享禄元年(1528)8月に信濃国諏訪郡への本格的な進攻を企てたが、諏訪頼満・頼隆父子に大敗を喫した(神戸・境川の合戦)。
ここに甲斐国の武田氏と信濃国の諏訪氏は敵対する関係になったのである。

享禄4年(1531)1月21日、武田氏被官の飯富虎昌・栗原兵庫らが甲府より逐電して御岳山に籠り、今井(浦)信元もこれと連携した。この前年に信虎は扇谷上杉朝興の口入で山内上杉憲房の未亡人を側室に迎えたことが家臣団からの反発を買うなど、従前からの信虎への不満が蓄積されていたのであろう。そして彼らは諏訪頼満にも支援を要請し、その軍勢と併せて甲府の襲撃を企てたのである。
諏訪氏としては享禄元年の報復という理由もあったであろうが、頼満の娘が今井信元の弟の今井信親(信隣)に嫁いでいるという縁戚関係もあったため、反信虎方の要請に応じたものと思われる。さらには大井信達・信業父子もこれに同心したため、大規模な反乱に発展したのである。
しかし信虎は各地を転戦あるいは軍勢を派遣して各個撃破を図り、2月2日の合戦で大井信業と今井尾張守を戦死させる勝利を挙げ、10日には東郡で栗原氏を相手に戦っている。この戦いでその翌日には塩山向嶽寺が戦火に罹って焼失した。3月には曽根三河守縄直を大窪(窪八幡神社付近か)に派遣したが、この戦線では縄直が戦死したようであり、早期の鎮圧はならなかったようだ。
そして4月12日(一説には3月12日)、甲府襲撃のために進出してきた諏訪頼満、これと合流した今井信元・栗原兵庫らの軍勢と信虎の軍勢は、塩川畔の河原辺で激突した。1日のうちに4,5回も戦うという激戦の末、信虎方の勝利となる。信虎方が討ち取った人数は栗原兵庫以下8百人にものぼり、このうち諏訪勢は3百人であったという。
諏訪勢はそのまま信濃国へと撤退した。

この後、飯富虎昌や大井父子は時期は不詳ながらも赦免されており、大窪付近の戦線も8月頃までには沈静化したようである。
今井信元は本拠地の浦城(獅子吼城か)に拠り、諏訪氏や信濃国の領主らの援助を受けて抵抗を続けたが、翌天文元年(1532)9月に至って降伏した。
信虎は、最後まで抵抗を続けた信元を降したことにより、甲斐国統一を成し遂げたのである。