大井信達(おおい・のぶさと) ?〜1543?

甲斐国の国人領主。大井信包の子。通称は次郎。上野介。甲斐国巨摩郡上野城主。
この大井氏は甲斐・安芸守護を兼ねた武田信武の三男・信明を祖とする武田氏の庶流で、甲斐盆地西部の大井郷を基盤として近隣一帯を支配した。小笠原長清の子・大井朝光に始まる信濃国佐久郡の小笠原系大井氏とは系統を異にする。
甲斐国への勢力拡張を目論む駿河・遠江守護の今川氏親に通じ、その後援を得て永正12年(1515)頃より甲斐守護・武田信虎との抗争に及んだ。同年10月には上野城を信虎に攻められているが、これを撃退している(上野城の戦い)。しかし永正14年(1517)3月に武田氏と今川氏の和睦が成ると信虎に服属し、娘が信虎の正室となった。この信達の娘がのちに信虎の嫡男・晴信(のちの武田信玄)を産むことになる。
永正16年(1519)末に信虎が統制強化策の一環として甲斐国府を川田館から躑躅ヶ崎館に移すにともなって大井氏も移住を余儀なくされたが、翌永正17年(1520)5月にはこれに反発して栗原信友・今井(浦)信是とともに甲府から退去して離反するも、6月には鎮圧されて(都塚・今諏訪の合戦)再び服属を許され、高雲斎宗芸と号して出家した。
歌道に長じていたといい、公家の冷泉為和が天文6年(1537)より信虎に招かれて和歌会を催した際には、数度に亘って同席している。
天文12年(1543)7月頃の死去と目されている。法名は本習院(または双白院)能嶽宗芸。