今川氏親(いまがわ・うじちか) 1473?〜1526

駿河・遠江守護。今川氏第7代当主。駿河守護・今川義忠の子。母は北条早雲の姉・北川殿。幼名は龍王丸。通称は彦五郎。治部大輔・修理大夫・上総介。道号は紹僖・紹貴。
文明8年(1476)4月に父・義忠が塩買坂の合戦で戦死したとき、龍王丸は幼少であったので義忠の従弟・小鹿範満が執政となったが、一族や家臣の三浦・岡部・朝比奈・庵原・由比の諸氏らの間で後継をめぐって家中が二派に分裂し、派閥争いが生じた。
『野史』によれば、この駿河の乱れを平治させようと、堀越公方の家宰で小鹿範満の外祖父にあたる犬懸上杉政憲は太田道灌を遣わしたという。
北川殿は龍王丸を連れて駿河国志太郡小河郷の小川法栄のもとに非難し、難を逃れた。その間にも今川氏家督をめぐる内訌は激化し、堀越公方の足利政知が介入するまでになったが、早雲の仲介により関東勢を阻止するとともに範満を討って龍王丸を迎え、文明11年(1479)12月に幕府から家督相続を認められた。
実質的に国政を執りはじめたのは長享元年(1487)頃で、早雲の援助を得て明応3年(1494)の秋頃から遠江国への侵出を始めている。文亀元年(1501)には遠江守護の斯波氏と信濃守護の小笠原氏の連合軍を破り、信濃・三河の国境付近にまで勢力を広げた。
永正3年(1506)より5年(1508)の間、早雲を将として三河国へ侵出させた。これは成功しなかったが、永正5年7月までには遠江守護に任じられている。
その後は遠江国の平定を目指し、斯波氏と結んだ引馬荘地頭の吉良氏と戦い、永正8年(1511)に斯波義達が遠江に侵入すると戦って捕えて尾張国に放逐、永正14年(1517)8月には引馬城を陥落させて(引馬城の戦い:その2)遠江国の平定を名実ともに完成させた。
翌永正15年(1518)や大永4年(1524)に遠江国で検地を行い、大永6年(1526)には分国法として『仮名目録』を制定するなどして支配体制を強化し、幕府被官としての守護大名から、独自路線を歩む戦国大名へと転換する基礎を築いた。
大永6年6月23日、中風を患って病死。54歳か。法号は増善寺喬山。
戦国時代の書状には発給者の署名として、意匠を凝らした『花押』(サイン)や『印判』(認印)が用いられたが、この印判使用の先駆者が龍王丸であった。
龍王丸が印判の使用を始めたのは家督相続直後のことで、この頃の龍王丸はまだ諱(公的に使用する名前)を持たず、つまり花押が決まっていなかったために印判を使用するという形式になったと見られている。