太田道灌(おおた・どうかん) 1432〜1486

扇谷上杉氏の重臣。太田資清(道真)の子。幼名は鶴千代。通称は源六。
「道灌」とは出家号であり、通説では実名を「資長」とされているが、この道灌と資長は別人であるとする説もある。のち(文明10年(1478)頃か)剃髪して静勝院道灌と号す。
文安3年(1446)に元服。享徳2年(1453)1月に従五位下・左衛門大夫に叙任される。康正元年(1455)に家督を相続して正五位下・備中守に叙任され、以後は扇谷上杉氏の家宰として才腕を揮い、智仁勇兼備の武将と謳われた。
古河公方・足利成氏との対陣、文明8年(1476)の駿河国今川氏の内紛調停、豊島氏との江古田原・沼袋の合戦長尾景春討伐などに奔走、他にも武蔵国用土原の合戦、上野国塩売原の合戦など多くの合戦に出陣し、無敗の戦歴を誇った。
扇谷上杉定正をよく補佐し、主家の勢力伸張に大きく貢献している。
しかし文明18年(1486)7月26日、定正に招かれた相模国大住郡糟屋の糟屋館(定正館)で入浴した際に、定正近臣の曾我兵庫に襲われて絶命した。このとき道灌は「当家滅亡」と叫んで倒れたという。享年55。法名は香月院殿春苑道灌庵主。
この道灌暗殺の背景は不詳であるが、扇谷上杉氏の台頭を妨げようとする関東管領・山内上杉顕定の甘言に主君・定正が乗せられたとも、また、刺客となった曾我氏との扇谷上杉氏家宰の地位をめぐる内訌とも見られる。
武事だけでなく文学や歌道にも優れ、史伝・和歌撰集・記録・医書・兵書など数千巻を居城の江戸城に所蔵していたという。道灌が文学・歌道を志すきっかけとなったといわれる「山吹」の逸話は有名である。
また、築城においても優れた才を見せ、康正2年(1456)から長禄元年(1457)4月にかけて武蔵国に江戸城を築いている。道灌の縄張りによる江戸城・岩付城・河越城は堅固な名城として名を馳せた。