長尾景春(ながお・かげはる) 1443〜1514

はじめ山内上杉家臣。父は長尾景信、母は長尾頼景の娘。通称は孫四郎。四郎左衛門尉。伊玄斎・伊玄入道。上野国白井城主。白井長尾氏と称される。
祖父の景仲、父の景信は山内上杉氏の家宰として重きをなしており、文明5年(1473)の景信の没後は、その地位を継承して家宰に任ぜられるものと考えていたが、意に反して山内上杉顕定は景信の弟(景春の叔父)・忠景を指名して家宰職につけた。景春はこれを不服として、鎌倉から所領の上野国白井城に退いて、伊玄入道と号した。
文明8年(1476)6月に武蔵国鉢形城に拠って叛旗を翻し(長尾景春の乱)、顕定ら上杉一派と敵対する古河公方・足利成氏と通じた。翌年1月には上杉勢が本陣を置く武蔵国五十子を急襲して勝利を収め、上杉一派を上野国那波に追い落としている(五十子の合戦)。
この景春の謀叛に際し、関東各地には豊島氏や長野氏をはじめとして景春に与同する武士も多く、これらを糾合して一大勢力を築いたことから、単なる思いつきの反抗ではなく、それなりの計画に裏打ちされたものと目される。
この景春勢力の出現によって関東地方の争乱は混乱の度合いを更に増したが、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は景春に対抗するために山内・扇谷の両上杉の協調を推進し、さらには両上杉と成氏方も和睦に傾かせるなど、道灌の外交策・武略の両面に亘る活躍で徐々に沈静化されていく。そして道灌が文明10年(1478)7月に景春の拠る鉢形城を、文明12年(1480)6月には秩父日野城を抜いたことでようやく乱が終息した。
しかし、この道灌が文明18年(1486)に暗殺されると山内・扇谷の両上杉は不和となり、この対立(長享の乱)においても景春は「反山内上杉」を貫いて扇谷上杉定正に与し、山内顕定方と戦った。
永正2年(1505)に上野国白井城に入ったが、永正6年(1509)に顕定の養子・上杉憲房に追われて柏原城に逃れた。しかし翌永正7年(1510)に上杉顕定が越後国の長森原の合戦で討死、顕定に同行していた憲房が白井に退却してきたところを破り、白井城を奪還した。
永正11年(1514)8月24日死去、72歳と伝わる。死去の場所は不明である。法名は凉峰院殿大雄伊玄庵主。
その後半生を一貫した反山内に費やし、武略・知略に優れた勇士だったという。