足利成氏(あしかが・しげうじ) 1438〜1497

鎌倉公方・足利持氏の四男。初代の古河公方。母は簗田満助の娘。幼名を永寿王丸または万寿王丸。従四位下・左馬頭・左兵衛督。
永享11年(1439)閏1月、父・持氏が関東管領の上杉憲実に攻められて自害したとき(永享の乱)信濃国に逃れ、信濃国佐久郡の国人領主・大井持光の庇護を受けた。
その後、関東諸将の要請によって鎌倉府再建の動きが現実のものとなり、幕府で協議の結果、新しい鎌倉公方として文安4年(1447)3月に永寿王丸が任命された。永寿王丸は同年8月末頃には信濃国より鎌倉に入って5代目の鎌倉公方に就任し、宝徳元年(1449)8月に元服、将軍・足利義成(のちに義政と改名)の一字を与えられて成氏と名乗り、従五位下・左馬頭に叙任された。
この前年までには第16代の関東管領職に憲実の子・上杉憲忠が任じられていたが、双方の父が永享の乱において敵対していたこと、永享12年(1440)から翌年にかけての結城合戦において2人の兄を討たれているという経緯もあって上杉一派やその背後にある幕府と不仲となり、ついには享徳3年(1454)12月、成氏が憲忠を自邸に招いて謀殺した。このことが引き金となって関東は再び公方派と上杉派に分裂、享徳の乱が始まった。
享徳4年(=康正元年:1455)1月、扇谷上杉顕房長尾景仲らの率いる上杉軍を武蔵国分倍河原で破った(分倍河原の合戦)。しかし幕府の命を受けた駿河国の今川範忠軍によって鎌倉を攻略されると、鎌倉を捨てて下総国古河に拠った。古河に居を構えたことから古河公方と呼ばれるようになる。
以後は幕府、幕府より派遣された堀越公方の足利政知、上杉氏らと長く抗争を続けたが、文明9年(1477)に至って成氏は和睦を申し出て、文明14年(1479)11月に京都の将軍家と古河公方の和睦(「都鄙(とひ)合体」)が成立し、存続が認められた。
明応6年(1497)9月30日没。享年60。法号は乾亨院久山道昌。