上杉顕房(うえすぎ・あきふさ) 1435〜1455

扇谷上杉氏。扇谷上杉持朝の嫡男。通称は三郎。修理大夫・弾正小弼。相模守護。
宝徳元年(1449)、鎌倉府の再建とともに父・持朝が隠居するに際して相模守護職と扇谷上杉氏の家督を譲られ、家宰の太田資清(道真)・資長(道灌)父子の補佐を受けて鎌倉公方(のちに古河公方)の足利成氏に仕えた。
しかし前代から引きずる鎌倉公方と上杉氏の確執は沈静化ならず、成氏の近臣・簗田持助による上杉領相模国長尾郷の押領や、結城合戦において足利方の大将であった結城氏朝の遺児・成朝の鎌倉府への出仕などを端緒として対立が再燃し、宝徳2年(1450)4月、長尾景仲・太田資清らが成氏を鎌倉の御所、ついで相模国江ノ島に攻めて逆に撃退される(江ノ島合戦)と、鎌倉から逃れて七沢の要害に拠って抗戦し、和議成立後の10月に鎌倉に帰った。
さらに成氏が享徳3年(1454)12月27日に関東管領・山内上杉憲忠を誅殺したため、ついに鎌倉公方と山内・扇谷ら上杉一派の全面抗争が再び勃発した(享徳の乱)。
この事態に対し、上杉方は幕府に支援を要請するとともに、鎌倉への侵攻を企図。翌享徳4年(=康正元年:1455)1月、顕房は庁鼻和上杉憲信や犬懸上杉憲秋、長尾景仲らとともに上野・武蔵国方面から鎌倉を目指して進軍を開始し、自ら迎撃に出陣した成氏の軍勢と武蔵国府中近辺の分倍河原で戦ったが、敗れて深手を負い、敗走途中の武蔵国入東郡の夜瀬で1月24日に自害した(分倍河原の合戦)。享年21。法名は長源院道光。