上杉持朝(うえすぎ・もちとも) 1415?〜1467

扇谷上杉氏。上杉氏定の子。上杉持定の弟。幼名は竹寿丸。通称は三郎。弾正少弼・修理大夫。相模守護。号は道朝。
応永23年(1416)10月の上杉禅秀の乱で父・氏定が戦没したのちは兄・持定がそのあとを継いだが、その持定も応永26年(1419)に早世したため扇谷上杉氏の家督を継承した。しかし持朝がまだ幼少であったため、扇谷上杉氏の家政は従兄弟の上杉定頼(小山田上杉氏)が差配している。
持朝の扇谷上杉氏当主としての活動の初見は永享5年(1433)8月に武蔵国久良岐郡日野郷の徳恩寺の本地堂を造営したことであり、永享8年(1436)9月に鎌倉扇谷の覚園寺に壁書を定めているが、このときに弾正少弼の官途を称している。
永享10年(1438)8月、鎌倉公方・足利持氏との対立が決定的となった関東管領・山内上杉憲実が上野国に退去した際には随行しており、永享11年(1439)2月には憲実の命を受けて持氏を永安寺に攻めて滅ぼすなど、幕府・関東管領派と鎌倉公方派による関東地方の内訌(永享の乱)には関東管領方の中心的人物として功績があった。
永享12年(1440)からの結城合戦においても幕府の命を受けて上杉清方とともに参画しており、時期は不詳であるが、この結城合戦ののちに相模守護職に補任されている。
宝徳元年(1449)に持氏の遺児・永寿王(のちの足利成氏)が鎌倉に入ると、道朝と号して出家するとともに家督と相模守護職を嫡子・顕房に譲って隠退するなど、一貫して関東管領派に属す姿勢を貫いている。
宝徳2年(1450)4月の江ノ島合戦においては、隠居の身であったが軍勢を率いて顕房とともに出陣し、相模国七沢要害に拠って抗戦した。
享徳3年(1454)12月、成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことによって享徳の乱が起こると、持朝は長尾景仲や太田資清とともに成氏に対抗し、憲忠の弟・上杉房顕を迎えて関東管領職と山内上杉氏の家督を継がせるなど、この享徳の乱においても上杉方の中心的人物として在った。
享徳の乱勃発直後の享徳4年(=康正元年:1455)1月22日、相模国島河原の合戦において成氏方の一色直清・武田信長らと戦うが敗れ、伊豆国三島に逃れた。また時を同じくして行われた武蔵国分倍河原の合戦において子・顕房が敗死したため、再び扇谷上杉氏を管掌することとなった。
4月には幕府より派遣された駿河守護・今川範忠の軍勢と合流して北上し、6月に鎌倉を制圧。こののち、成氏が下総国古河に拠ることになると、持朝は長禄元年(1457)に武蔵国に岩付・河越・江戸の3城を築いてこれに対した。
のち、新たな関東公方として幕府より派遣された足利政知と所領問題に端を発する政治的対立を起こしているが、将軍・足利義政は持朝を「代々の忠節者」と評して全面的に支持したことから、幕府からの信頼も厚かったことが窺える。
応仁元年(1467)9月7日死去。53歳か。法名は広感院殿旭嶺道朝大禅定門。