足利義政(あしかが・よしまさ) 1436〜1490

室町幕府第8代征夷大将軍。在位期間は宝徳元年〜文明5年(1449〜1473)。
永享8年(1436)1月2日、第6代将軍・足利義教の五男として生れた。母は日野裏松重子で、7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。幼名は三寅、のちに三春(さんはる)。
幼少期は乳父・烏丸資任邸で養育された。
嘉吉3年(1443)7月、前将軍で兄の義勝が10歳で早世したため、8歳で将軍職後継者となる。
文安3年(1446)12月13日、後花園天皇より名を「義成」と賜り、従五位下・侍従に叙位・任官。文安6年(=宝徳元年:1449)4月16日に元服、4月29日に征夷大将軍に就任。
享徳2年(1453)6月13日、名を義政と改名。
管領・畠山持国らに補佐されて政務をみたが、実際には側室の大館氏(今参局)、妻の日野富子やその兄・日野勝光、近臣の伊勢貞親らに介入されて意に任せず、国政への熱意を失って社寺参詣や遊山、酒宴に耽った。このために幕府財政は窮乏し、寛正の大飢饉や一揆にほとんど対策を講じなかったために社会不安が漲ったという。
隠居を望んだ義政は寛正5年(1464)に弟の足利義視を還俗させて後継者に決めたが、翌年(1465)に妻の富子に義尚が生れたために家督争いが起こり、これに山名宗全細川勝元の政治闘争や畠山氏・斯波氏の内訌が複雑に結びつき、ついには応仁の乱 を引き起こすこととなった。しかし、争乱を抑えるどころか勝元に与するなど、征夷大将軍としての統制力や責任感に乏しく、この争乱の最中の文明5年(1473)に将軍職を義尚に譲り、風流の生活に逃避した。
争乱によって京都は灰燼に帰したが、それでも政治を省みることなく、文明15年(1483)には東山に銀閣寺を建てて移り、芸能や遊楽に耽った。しかしこのため美術工芸が盛んになり、いわゆる東山文化を生んだ。また、禅僧を外交顧問として重用したことで宋学が流行、五山文化発展の一因にも寄与することとなった。他にも建築・造庭・宋元風水墨画・猿楽・能楽・生け花など芸術・芸能も大きく進展した。
子の義尚が延徳元年(1489)3月に没すると再び幕政にあたったが中風に倒れ、翌年(1490)1月7日に他界した。55歳。法号は慈照院喜山道慶。