伊勢貞親(いせ・さだちか) 1417〜1473

室町幕府の政所執事。伊勢貞国の子。通称は七郎。兵庫助・備中守・伊勢守を称す。妻は蜷川氏の女。
父・貞国の死没を受けてその翌日の享徳3年(1454)5月28日に家を継ぎ、長禄4年(=寛正元年:1460)6月に政所執事に任じられた。応仁元年(1467)、従四位上に叙任。
政所執事就任以前の事績は不詳だが、将軍・足利義政がこの貞親に撫育されたことから、義政が文安6年(=宝徳元年:1449)4月に将軍位に就くと貞親もその側近として勢威を揮い、幕政を左右するほどの権勢を握った。このため、義政・貞親の体制は「政所政治」と称された。
長らく男児のなかった義政は寛正5年(1464)12月に弟・足利義視を後継者としたが、翌寛正6年(1465)11月に義尚が生まれ、その乳父(養育係)となった貞親は義尚が将軍位を継ぐことを望み、義視の失脚を図って文正元年(1466)9月に義政に義視を讒言し、殺害を企てた。
また、三管領家のひとつである斯波氏の内訌に介入し、同年7月に義政に進言して斯波氏家督を斯波義廉から自分の閨房の縁につながる斯波義敏に替えさせるなど、恣意的な言動が多かったことから細川勝元山名宗全ら幕閣の有力者との対立を招き、同年9月6日に失脚した(文正の政変)。
この後は近江・伊勢国などに逼塞していたが、義政より恃みとされて応仁2年(1468)閏10月に政務に復帰した。しかし貞親が復帰したことが要因のひとつとなって、前年からの応仁の乱において東軍陣営に在った義視が西軍陣営に鞍替えして将軍に擬されたために義政・義視兄弟の不和、延いては東軍と西軍の対立抗争の激化に拍車をかけることとなった。
文明3年(1471)4月に老齢を理由として致仕、剃髪して聴松軒と号し、文明5年(1473)1月21日に若狭国にて没した。享年57。法号は常慶悦堂聴松院。
和歌・連歌・騎射の道に長じ、武家殿中の諸礼式や儀杖・兵杖などの故実にも明るく、殿中総奉行・御厩別当を務め、後世に武家礼式の規範とされた伊勢流故実の形成にも多大な影響を与えた。
また、晩年には子・貞宗の教訓のために『伊勢貞親教訓』を著し、政治の心得や将軍家への心遣い、書礼に関することまで書き遺している。