足利氏一族・渋川義鏡の子。治部大輔・左兵衛佐。室町幕府管領。
寛正2年(1461)10月、斯波氏重臣の朝倉敏景・甲斐敏光らの尽力により斯波氏の武衛家(斯波氏の本家)を相続し、越前・尾張・遠江国の守護を兼ねる。しかし、元越前守護で長禄3年(1459)に将軍・足利義政の怒りに触れたために守護職と斯波氏家督の地位を更迭された斯波義敏が、義政の寵臣でもあり幕府政所執事の伊勢貞親を通じて寛正6年(1465)12月に赦免されたことにより、義敏との抗争が勃発する。この義廉と義敏の家督相続をめぐる抗争が、のちに起こる応仁の乱の遠因のひとつとなった。
文正元年(1466)8月に義廉は斯波氏当主の地位と3国の守護職を解任され、代わって義敏が政界に復帰。しかし翌9月、縁戚関係のある山名宗全が細川勝元と結んで伊勢貞親を駆逐する(文正の政変)と斯波義敏も越前国に退散し、義廉は赦されて再び3国の守護職と斯波氏家督を復したばかりでなく、文正2年(=応仁元年:1467)1月には宗全の推挙によって管領に任じられた。
その直後に応仁の乱が起こると義廉は西軍(山名方)に属したが、義政が東軍(細川方)についたこともあって、翌応仁2年(1468)7月に管領職を罷免された。
同年閏10月には、越前国を蚕食する義敏勢に対して朝倉敏景を派遣して義敏勢の鎮圧にあたらせたが、文明3年(1471)に至って敏景が東軍に寝返って幕府の直臣格となったため、最大の支持勢力を失って衰退した。
文明4年(1475)には尾張国に下り、織田敏広に擁されて義敏方の織田敏定を一時的に駆逐するも、敏定が文明10年(1481)に幕府より「凶徒退治」の名目を得ると、義廉は尾張国でも支持勢力を失い、没落した。
その後の動向は不詳である。