斯波氏の重臣で、越前・遠江国の在京守護代・甲斐将久(常治)の嫡男。通称は八郎か。
長禄2年(1458)7月に勃発した、越前国の守護である斯波義敏と守護代の甲斐氏による越前国の内乱(長禄合戦)において、8月頃より戦況不利となると父・将久の意を受け、朝倉敏景らとともに同年11月に越前国に向けて発向した。しかし斯波方(守護方)の武将・堀江利真に阻まれて入国できずにいたが、長禄3年(1459)3月に幕府が甲斐氏支援の方針を打ち出すと戦況は甲斐勢優位に傾き、同年5月末には越前国の府中への入部を果たした。
この5月に斯波義敏は兼帯していた越前・尾張・遠江の守護職を更迭されており、敏光は同年8月に義敏の子・松王丸(のちの斯波義寛)を守護に擁立した。また、敏光の父の将久が8月12日に没した際、敏光は越前国に出陣中であったため、敏光の子の千菊丸(千喜久丸、のちの甲斐信久)が守護代職を継承している。
長禄4年(=寛正元年:1460)8月、朝倉敏景とともに遠江国へと出陣した。これは前年8月頃より斯波氏以前に遠江守護であった今川氏が斯波氏の内紛の隙を衝いて手を伸ばしてきたためであったが、まもなく鎮圧に成功したようである。
寛正2年(1461)8月、幕府の意向によって斯波氏当主は義寛が退けられて渋川義鏡の子・義廉が新当主に据えられ、10月に義廉が将軍・足利義政に謁見した際には、敏光も朝倉敏景とともに同席している。
寛正4年(1463)11月に千菊丸に代わって守護代になったようだが、翌寛正5年(1464)1月には再び千菊丸が守護代となっている。
応仁の乱に際しては朝倉敏景とともに斯波義廉が与した西軍勢力に属したが、文明3年(1471)に至って敏景が東軍に寝返ったため干戈を交えることになり、甲斐氏が本拠とした越前国府中を文明4年(1472)8月に陥落させられ、「甲斐八郎」が加賀国へと没落している。
その後の甲斐氏は文明5年(1473)7月から8月にかけて、さらにその翌年の5月から閏5月にかけて反撃に出ては敗れているが、斎藤妙椿の仲介によって6月に朝倉氏と和睦した。
文明7年(1475)2月には東軍に降伏し、将軍から遠江守護代に任じられた。しかし朝倉敏景に越前守護職を奪われた斯波義敏が同年4月に挙兵すると、これに与して朝倉勢と戦ったが打倒することは出来ず、文明15年(1483)3月頃に至って朝倉氏と和睦した。