長禄(ちょうろく)合戦

斯波氏の重臣・甲斐氏は越前国の在京守護代を世襲する家柄であり、甲斐将教が室町幕府第3代将軍・足利義満から所領を安堵されて以降の応永・永享年間には毎年甲斐邸に将軍の渡御(訪問)を受けるという、直臣ともいうべき待遇であった。これは、将軍家が斯波氏の勢力増大を内部から抑制するための措置として甲斐氏を優遇したともいわれるが、事実、甲斐氏は主家の斯波氏に匹敵するほどの権勢と実力を有し、独立的な地位にあったのである。
甲斐将久(常治)は応永27年(1420)の父・将教の没後に家督を継いで主家を補佐し、永享8年(1436)9月末に斯波氏惣領・斯波義郷が没してその嫡子・義健がわずか3歳で家督を相続することになった際には、斯波氏庶流で越前国の分郡守護であった斯波持種とともに後見にあたった。しかしその義健も享徳元年(1452)9月に嗣子なく病没したため、持種の子・義敏が越前・尾張・遠江の3国の守護職と家督を継承することになったのである。
しかし義敏はしだいに将久と不仲になっていき、康正2年(1456)には将久と争論を起こして8代将軍・足利義政に訴えている。この争論の内容は不詳であるが、義政が将久に有利な裁定を下すと、これを不服とした義敏は康正3年(=長禄元年:1457)元日に出奔し、京都東山の東光寺に籠もったのである。
この反目の発端は、義敏が家督継承に際して将久の尽力が大きかったのに、その恩義を忘れて将久の弟を甲斐氏の家督に据えようとしたとする説や、将軍家や政所執事の伊勢氏と懇意であった将久が驕った態度を取ったなどとする説もあるが、領国の実効支配を担って威勢の増大を図る甲斐氏の思惑と、それを抑えようとする守護(義敏)とが反発しあったということであろう。
同年11月には義敏の被官が、時をほぼ同じくして蜂起した徳政を求める一揆に乗じてのことか、洛内で甲斐氏の被官を襲撃しており、これに対して甲斐氏は幕府の命を受けて朝倉氏・織田氏らとともに件の義敏方被官をひとり残らず討ち取っている。
この将久と義敏の反目は、義敏方被官の所領を元のように安堵するという義政の調停によって長禄2年(1458)2月末に和解が成ったが、越前国支配をめぐる対立は水面下でなおも続き、彼の地で軍事抗争が勃発することになったのである。

この頃、関東では足利成氏が幕府に反抗して争乱を起こしていたが(享徳の乱)、同年6月、義政はこの成氏を討伐するため義敏・将久に出陣を命じた。しかし両者とも越前国の緊迫した情勢を危惧して未だ京都から動かなかった。そして7月にはその懸念どおりに越前国で義敏・将久の両派による抗争が始まったのである。
当初は甲斐方が優勢であったが、8月になって義敏より派遣された堀江利真が京都から越前国に入国すると形勢は逆転、9月には堀江軍が甲斐方の代官を逐って越前北部を制圧し、義敏方が優位に立った。
また、この抗争における甲斐方代官の戦死や逃亡によって被支配地の空白化が広がったことを好機に、興福寺大乗院はこれまで代官に押領されていた荘園を直接支配することを企図し、幕府に願い出て許されると使者を派遣したが、堀江は独自に交渉して荘園内の一部の郷の代官職を獲得することに成功したのである。この堀江の行動は守護代の甲斐氏はもちろん、幕府としても容認できるものではなかった。
その間にも関東では幕府方の足利政知や上杉一派が劣勢を強いられており、幕府は11月15日までに義敏は尾張国、将久は遠江国まで下向せよとの出陣命令が再度下された。
この督促に義敏は11月15日に軍勢を率いて京都を発ち、将久もようやく出陣した。その一方で将久は義政より守護代として越前国の支配を容認されており、将久は11月1日に子・敏光や朝倉敏景を越前国に向けて派遣している。

甲斐敏光らは堀江勢に阻まれて軍勢を進めることができず、11月4日には琵琶湖北岸の近江国海津にて滞陣していたが、義敏もまた軍勢を途中の近江国坂田郡小野で止めて動かず、そのまま越年している。
翌長禄3年(1459)になると両者の抗争は鎮まるどころか拡大する様相を見せ、これを憂えた義政は使僧を派遣して再度の和睦を図ったが、義敏方は、甲斐氏のこれまでの不義を申し立てて応じようとしなかった。一方の甲斐方諸将は和睦に同意していたというが、この義敏方の返答に憤慨し、以後は子々孫々に至るまで義敏を斯波氏の家督とは認めないとの起請文を政所執事・伊勢貞親に提出したという。
この事態を受けた幕府は3月17日に公然と甲斐氏支援の方針を打ち出し、越前国の国人領主や隣国の守護らに甲斐敏光への合力を命じた。4月20日には義敏方の堀江石見守が甲斐方の越前国敦賀城を攻めているが敗れており、戦況は明らかに甲斐方優勢に傾きはじめていた。
劣勢の挽回を図る義敏は5月13日、前年より近江国小野に止めていた関東に出陣するはずの軍勢を越前国に差し向け、1万余の兵で海陸から敦賀城を包囲した。この報を得た幕府は越前の近隣諸国に義敏追討の御内書を下して甲斐方支援にあたらせ、近江国海津にて機を窺っていた甲斐敏光・朝倉敏景の軍勢も敦賀城の救援に向かった。これに力を得た敦賀城兵は城を出て義敏勢を迎撃、駆逐して勝利を得た。
これにより敏光は5月27日に府中に入部を果たし、義敏勢は撤退を余儀なくされたのである。

甲斐方との合戦に大敗して逐われた堀江勢は、長禄3年7月に再び勢力を盛り返して越前国に侵攻して坂井郡長崎に布陣し、8月11日には迎撃に出た朝倉敏景の軍勢と足羽郡和田荘にて戦ったが、堀江石見守兄弟父子5人のほか7百以上もの戦死者を出して敗北した。
この翌12日の夜には甲斐将久が急死しているが、その一方で幕府の関東出陣命令を無視したあげくにその軍勢を敦賀城攻撃に差し向けて大敗を喫した義敏は、義政の強い怒りに触れて守護職を奪われ、周防国の大内氏のもとに隠退した。
ここに長禄合戦と呼ばれるこの抗争は終息し、越前守護職は将久のあとを継いで越前守護代となった甲斐敏光に擁立された斯波松王丸(義敏の子:のちの斯波義寛)が補任されることになったのである。