斯波義敏(しば・よしとし) 1435〜1508

斯波氏庶流・大野(斯波)持種の子。越前・尾張・遠江守護。従五位下・左兵衛佐・左兵衛督。
享徳元年(1452)に斯波氏の武衛家(斯波氏の本家)当主・斯波義健が嗣子のないままに早世すると、斯波氏重臣の甲斐将久(常治)・朝倉敏景らに擁されて武衛家を継ぎ、越前・尾張・遠江の守護となった。同年11月に従五位下・左兵衛佐に叙位・任官。
しかし数年を経ずして将久と不仲になり、将久の弟・甲斐近江守らに擁されて将久と対立するに至る。康正2年(1456)に将久の専横を幕府に訴えてこれに敗訴すると、その裁定を不服として康正3年(=長禄元年:1457)元日に出奔して東山の東光寺に籠居した。この対立は長禄2年(1458)2月に将軍・足利義政の斡旋によって和睦が成ったが、両者の反目は依然として続き、同年7月に甲斐方勢力が越前国にて蜂起したことで越前国は激しい内乱状態に陥った(長禄合戦)。
同年11月下旬、義敏は幕府の命を受けて古河公方・足利成氏を征伐するための軍勢を率いて京都を出立したが、その軍勢をもって長禄3年(1459)5月に甲斐将久の拠る越前国敦賀城を攻めたために義政の怒りを買うこととなり、3国の守護職と斯波氏家督を罷免され、大内教弘を頼って周防国に逃れた。
この後、斯波氏の家督は甲斐方に擁立された義敏嫡子・松王丸(のちの斯波義寛)が相続したが、この松王丸も朝倉敏景らの工作によって寛正2年(1461)10月に廃され、代わって斯波義廉が当主となった。この間も義敏は復帰に向けた動きを画策し続けており、幕府政所執事・伊勢貞親を頼って寛正6年(1465)12月に義政より赦免を取り付け、翌文正元年(1466)8月に義廉を退けて守護職への復帰を果たした。
しかし同年9月、貞親が山名宗全らに排訴されて近江国に逃れた(文正の政変)ために後ろ楯を失った義敏も越前国に逃れ、義廉が再び斯波氏当主の座に復帰した。
翌文正2年(=応仁元年:1467)に応仁の乱が勃発すると義敏は細川勝元に応じて東軍に属し、西軍に与する義廉によって派遣された朝倉敏景と越前国内にて激しく戦った。戦況ははじめ義敏方に優勢だったが、越前国内に勢力を増大させていた敏景に圧されるようになり、文明3年(1471)に敏景が東軍に帰参して将軍家の直臣となるに及んで越前支配の実権は衰退した。
その後は沈黙を保っていたが、文明6年(1474)12月に東軍に帰順した甲斐氏が二宮氏と結び、文明7年(1475)2月に朝倉敏景と越前国大野郡をめぐる抗争を引き起こすと、義敏は甲斐・二宮に擁立されて大野郡の土橋城に入城したが、同年12月に和議を結んで城を出て、上洛した。
文明17年(1485)6月の義政の得度に伴って入道し、道海・深叟と号した。
永正5年(1508)11月16日に没した。74歳。
『新撰菟玖波集』に連歌7首を残す。