斯波義寛(しば・よしひろ) 1457〜1513

斯波義敏の嫡男。幼名は松王丸。初名は義良(よしすけ)。従四位下・左兵衛佐・治部大輔。
父・義敏とその臣である甲斐将久(常治)の抗争(長禄合戦)において、長禄3年(1459)に義敏が関東の足利成氏を討伐するための軍勢を用いて甲斐氏を越前国敦賀城に攻めたことが将軍・足利義政の怒りに触れて失脚すると、松王丸はまだ3歳の幼児であったが、甲斐敏光(将久の子)に擁立されて斯波氏家督の座に据えられ、長禄4年(=寛正元年:1460)に尾張・遠江・越前国の守護に補任された。しかし寛正2年(1461)9月には斯波氏の家督に斯波義廉を迎えようとする朝倉敏景の工作によって更迭され、相国寺に入れられて僧となった。
応仁の乱に際しては東軍に属し、応仁2年(1468)には東幕府より尾張守護に任じられた。
文明3年(1471)、東軍に寝返って威勢を伸張させた敏景に擁立されて斯波氏家督の地位に復帰、文明4年(1472)12月に元服し、義良と名乗る。しかし越前守護職を手にした敏景と不和になり、文明11年(1479)閏11月には反朝倉勢力を率いて敏景と戦った。この抗争は一進一退を繰り返したが、文明13年(1481)9月に至って叔父・斯波義孝らと共に加賀国へ放逐された。
その後も越前入国を試みるも失敗し、文明15年(1483)3月には尾張国へ下向して以後、尾張守護代の織田敏定を頼る。
文明17年(1485)4月、従四位下・左兵衛佐に叙位・任官。
この後、幕府の威光を後ろ楯とするために接近を図り、長享元年(1487)9月の9代将軍・足利義尚による六角氏征伐には尾張国より出陣した。この陣で朝倉氏を訴えて相論に及んだが敗北、延徳3年(1491)の10代将軍・足利義稙による六角氏征伐の際にも再び相論を興し、10月には将軍による越前遠征まで噂されたが、現実には六角氏との対陣中では軍勢を転回させることもできずにうやむやになり、これによって朝倉氏の越前国統治が公的に認められた。しかし同年8月には遠江守護職を回復し、文亀元年(1501)までは在職していたことが確認できる。
明応2年(1493)2月には足利義稙に従い、畠山義豊(基家)を討つために河内国正覚寺に参陣(陣場は和泉国堺)している。
永正10年(1513)4月17日に没した。享年57。