足利義尚(あしかが・よしひさ) 1465〜1489

第9代征夷大将軍。在位期間は文明5年〜延徳元年(1473〜1489)。
寛正6年(1465)11月23日、8代将軍・足利義政の子として生れた。母は日野富子。晩年は義煕(よしひろ)と名乗った。征夷大将軍・従一位。
義尚の生れる前年から次期将軍は義政の弟である義視と決まっていたが、義尚を教育した伊勢貞親や義尚の生母である日野富子、山名宗全(持豊)らが義視を廃して義尚を将軍位に就けようと画策、一方の義視は細川勝元を後ろ楯としてこれに対抗し、これが発火点となって応仁元年(1467)に至って、全国規模の大乱が発生した。応仁の乱である。
この争乱の中で、結局は義尚が文明5年(1473)12月に父の跡を継いで第9代将軍の座についた。
文明12年(1480)7月に一条兼良に『樵談治要』『文明一統記』を書かせるなど、政治を正す意思はあったが、義政の東山山荘が東府、義尚の室町第が西府と呼ばれたように、実際には二元政治であった。
文武両全を目指した義尚は長享元年(1487)9月、近江国内の寺社本所領や幕臣の所領を横領した近江守護・六角高頼を討つために自ら近江国坂本に出陣。ついで陣を鈎(まがり)に進めて高頼を甲賀に攻めたが(鈎の陣)、長享3年(=延徳元年:1489)3月26日、その陣中で病没した。25歳。法号は常徳院悦山道治。
寛大な性格であったが、事によっては生母・日野富子とも妥協しない強い面もあったという。
また幼時より和歌を好み、長じてからも多くの作品を残した。その歌集に『常徳院集』がある。