六角高頼(ろっかく・たかより) 1462?〜1520

近江南半国の守護。六角久頼の子。幼名は亀寿丸。通称は四郎。初名は行高。大膳大夫。近江国観音寺城主。
康正2年(1456)10月、自害した父・久頼のあとを受けて六角氏の家督と南近江守護職を継承。しかし長禄2年(1458)に幕府から突如として守護職を召し上げられた。この守護職は従兄にあたる六角政堯(父の兄・六角時綱の子)に与えられたが、のちに政堯が失脚したことによって長禄4年(=寛正元年:1460)7月に再び高頼が守護職に就いた。
応仁の乱には西軍に属し、東軍に与した六角政堯や京極持清らと戦い、居城の観音寺城や守護職を奪われるなど、劣勢を強いられた。しかし文明2年(1470)8月に京極持清が死去すると京極氏の内部では家督をめぐって分裂抗争が起こり、これに乗じて勢力を盛り返した。
高頼は近江国の国人領主を味方につけるために公家や寺社の本所領の押領を認め、応仁の乱が終息したのちの文明10年(1478)に南近江の守護に還補されたが、公家・寺社領を横領して自立化しようとする国人領主らを抑えきれず、その責任を追及されて長享元年(1487)7月に守護職を更迭され、同年9月には9代将軍・足利義尚による親征を受けることになる(鈎の陣)。
この将軍親征は長享3年(=延徳元年:1489)3月の義尚死没によって挫折し、高頼は10代将軍位に就いた足利義稙によって赦免された。
このとき高頼は守護として在京することと寺社領の返還を約束しているが、被官らが返還を拒絶したため高頼の赦免は取り消されるとともに守護職も没収され、延徳3年(1491)8月には足利義稙の追討を受けたが、再び甲賀山中に逃れて討伐を免れ、幕府軍が凱旋したのちに復帰して抵抗を続け、明応4年(1495)末に4度目の守護への返り咲きを果たす。
しかし独立性の強い被官の統制に苦慮し、文亀2年(1502)10月には重臣の伊庭貞隆を除こうとしたが逆に攻撃され、蒲生貞秀を頼って音羽城に落ち延びた(伊庭の乱)。この抗争は文亀3年(1503)6月に和議が成ったが、永正11年(1514)に足利義稙と足利義澄の抗争に関与して再び対立している。
永正17年(1520)10月21日に死去。諡は竜光院殿仙翁椿公大禅定門。