文正元年(1466)7月30日(29日とも)、足利義視の子として美濃国で生れた。母は日野富子の妹。初名は義材(よしき)、明応7年(1498)に義尹(よしただ)、永正10年(1513)に義稙と改名。左中将・左馬頭・従一位権大納言。
室町幕府第10代征夷大将軍。在位期間は延徳2年〜明応3年(1490〜1494)、永正5年〜大永元年(1508〜1521)の2度。
足利義尚との9代将軍職の跡目争いに敗れた父・義視と共に文明9年(1477)に美濃国の土岐成頼のもとに逃れたが、延徳元年(1489)に義尚が病没すると上洛して足利義政の養嗣子となった。翌延徳2年(1490)1月に義政が死没すると、7月5日に義稙が第10代の将軍位についた。
延徳3年(1491)8月、義尚が陣没したことによって頓挫していた近江国六角高頼討伐を再開し、翌年12月にはこれを終了して凱旋した。
ところが明応2年(1493)2月、畠山義豊(基家)を討つために河内国へ出征している最中に管領・細川政元が背き、自身が擁立する足利義澄を新将軍として立てるという政変が起こった(明応の政変)。捕えられた義稙は将軍職を退かされて竜安寺に幽閉された。6月にはこれを脱出して越中国、越前国へと下り、明応8年(1499)には朝倉氏の支援を受けて近江国に出陣。畠山尚順や紀伊国根来寺衆徒らを味方につけ、京都を目指して反攻したが、政元の軍勢に敗れて河内国に逃れた。
ついで周防国山口に下って大内義興を頼り、畿内には細川高国と結び、永正5年(1508)に義興に擁されて入洛、足利義澄と細川澄元を逐って7月1日には再び将軍位に返り咲き、永正8年(1511)の船岡山の合戦で勝利し、澄元勢を阿波国に追い落として政権を安定させた。
しかし永正15年(1518)8月に大内義興が周防国に帰国したことによって軍事力の中核を喪失すると、その機を衝いた細川澄元・三好之長主従が畿内に侵攻し、永正17年(1520)2月に高国が近江国に退くに及んで義稙は澄元を細川氏家督に任じた。
同年5月、高国が等持寺表の合戦で勝利して復帰したが関係の悪化は免れ得ず、大永元年(1521)に高国によって再び将軍職を解かれて淡路国に下り、大永3年(1523)4月9日、阿波国撫養で死去した。58歳。法号は恵林院厳山道舜。