細川政元(ほそかわ・まさもと) 1466〜1507

細川勝元の子。幼名は聡明丸。通称は九郎。従四位下・右京大夫。幕府管領。雪関と号す。
文明5年(1473)、父・勝元の死により細川京兆家 (管領家)の家督を相続して摂津・丹波・讃岐・土佐守護職を継承したが、幼少だったために細川政国の後見を受けた。
文明10年(1478)11月、前将軍・足利義政より一字を与えられて政元と名乗る。
文明18年(1486)に右京大夫に任じ、管領職に就任。
長享元年(1487)9月、9代将軍・足利義尚に従って近江国の六角高頼征伐(鈎の陣)に出陣。
長享3年(=延徳元年:1489)3月に足利義尚が陣中に没すると、政元は足利義澄を次期将軍に推したが、義尚の実母・日野富子らの推薦で次の将軍は足利義稙に決まった。
こうした経緯から政元と義稙の関係は良好とは言えず、義稙は政元の政敵である畠山政長を重用したため、明応2年(1493)2月に義稙が河内国に畠山義豊(基家)を討つために出征した隙を衝いて4月に義澄を擁して決起、併せて河内国に重臣の安富元家上原元秀らを派遣して政長を攻め滅ぼし、義稙を更迭した(明応の政変)。
そして翌明応3年(1494)には義澄を11代将軍に擁立、自らも管領職を得て幕府政治の実権を握った。畠山氏を没落させたことによって管領職は細川氏の独占状態となり、その権勢は「半将軍」と称されるほどのものであったという。
修験道に傾倒したことが知られており、神通力を追求していたものと思われるが奇行として捉えられることが多く、突然に修験の全国行脚を思い立ったり、日々の斎戒沐浴に励んだという。また、女性を一切近づけなかったもいわれる。
ためか政元には実子がなく、九条政基の子を迎えて澄之と名乗らせ、さらに阿波守護・細川成之の孫を養子にして澄元と名乗らせた。他にも高国という養子があったが、この三子によって家督争いが生じた。
政元は修験道に凝って政務を省みなかったために近臣の権力が増加しており、この近臣らによる内部抗争と三子の家督争いが入り混じって生じた分裂抗争に巻き込まれ、永正4年(1507)6月23日に澄之派の武将・香西元長らに殺害された。享年42。法名は大心院雲関興公。