細川高国(ほそかわ・たかくに) 1484〜1531

細川政春の子。管領・細川政元の養子となる。通称は六郎。従四位下・民部少輔・右京大夫・武蔵守。松岳と号す。
政元の次代の家督相続をめぐる細川澄之細川澄元の争いでは澄元に味方して、永正4年(1507)8月に澄之を攻め滅ぼした。しかし、その後に澄元・三好之長と対立すると伊賀国に出奔し、伊賀国から澄元に与する勢力の切り崩しを謀るとともに周防国の大内義興らを味方につけ、永正5年(1508)4月に澄元を近江国に逐って入京を果たし、前将軍・足利義稙を再び将軍に擁立。自らは管領となって実権を握り、管領代となった義興と共に幕政を運営した。
永正8年(1511)8月、澄元・之長方の軍勢が和泉国に進出してくると一時的に丹波国に逃れるが、船岡山の合戦で細川政賢・細川尚春らを破って再び入京を果たした。
永正15年(1518)に大内義興が周防国に帰ると、これを好機と捉えた澄元・之長らは永正16年(1519)11月に挙兵、軍勢を率いて阿波国より兵庫に上陸すると高国勢は崩れたち、永正17年(1520)2月に近江国に逃れた。しかし六角・土岐・朝倉ら諸氏の支援を受けて逆襲に転じ、同年5月には京都に之長を攻めて敗死させ(等持寺表の合戦)、澄元を阿波国に逐った。
再び権勢を取り戻した高国は専横を揮い、それを嫌った義稙が淡路に出奔すると、播磨国の赤松義村のもとに庇護されていた足利亀王丸(足利義澄の遺児・のちの足利義晴)を迎えて将軍に擁立し、高国政権を確立させた。
大永6年(1526)7月、弟・細川尹賢の讒言を受けて香西元盛を誅したため、元盛の兄弟である波多野稙通・柳本賢治が10月下旬に丹波国に拠って叛旗を翻し、さらには12月にはこれに呼応した三好勝長・政長が阿波国より堺に上陸。これを受けて高国は防衛に努めたが、大永7年(1527)2月の桂川の合戦で波多野・柳本の軍勢に破られると、義晴を奉じて近江国に逃れた。この義晴・高国の出奔のみならず、幕府の奉行衆なども逃散したため、室町幕府の機能は完全に停止した。
その後、三好之長の孫・三好元長足利義維(義稙の猶子)と細川晴元を擁して堺に拠り、暫定的な新政権(いわゆる堺幕府)を打ち立てたが高国は尚も返り咲きを目論み、伊賀・伊勢・越前・出雲などを渡って諸大名に助力を募り、享禄3年(1530)6月には備前国の浦上村宗と共に播磨国にて柳本賢治を討ち果たして摂津国へと侵攻、富松・大物(だいもつ)・伊丹・池田などの諸城を陥落させて逆襲に転じた。
しかし享禄4年(1531)6月、摂津国天王寺の合戦(別称:大物崩れ)で三好元長・赤松政村らに敗れ、尼崎に逃れたが捕えられ、6月8日に大物広徳寺で自刃した。48歳。
和歌・連歌・書道など教養に優れたほか多趣味であり、戦陣の合間にも連歌会や猿楽・犬追物・鷹狩などを催したという。