細川晴元(ほそかわ・はるもと) 1514〜1563

細川澄元の子。幼名は聡明丸。通称は六郎。従四位下・右京大夫。
細川氏京兆家(管領家)の家督を争っていた父・澄元が永正17年(1520)6月に阿波国勝瑞城で没したことを受け、7歳でそのあとを継ぐ。
大永6年(1526)、細川高国と波多野稙通・柳本賢治兄弟の紛争が起こると波多野らに呼応して三好元長政長らとともに挙兵し、翌年2月に高国が桂川の合戦に敗れて近江国に逃れると、足利義維とともに元長に推戴されて和泉国堺に拠り、義維を将軍に擬した暫定的な新政権(いわゆる堺幕府)を興した。
享禄4年(1531)、元長の支援を受けて高国を摂津国天王寺に滅ぼし(天王寺の合戦)、晴元政権を確立させた。
元長は天王寺の合戦での殊勲者であったが、晴元はその伸張ぶりを疎んじるようになり、さらには元長を頂点とする阿波国人衆に支えられた堺幕府から離脱して室町幕府の復興を目論み、享禄5年(=天文元年:1532)6月に木沢長政や一向宗徒とともに元長を和泉国堺の顕本寺に攻めて自刃させた(顕本寺の戦い)。元長の敗死によって軍事力の中核を失った足利義維が阿波国に撤退したことにより、堺幕府は消滅する。
その直後の8月に法華宗徒と結んで京都山科本願寺を焼き討ちにした(天文法華一揆)ため、翌天文2年(1533)2月に一向衆徒の報復を被って淡路国に逃れるが、のちに三好長慶の仲介によって和睦した。
天文5年(1536)9月、入京して将軍・足利義晴に謁見。翌年8月には右京大夫に任じられ、六角定頼や本願寺との提携により幕府政治を主導した。
しかし天文10年(1541)の木沢長政の叛乱や天文11年(1542)暮れ頃の「細川高国の跡目」と称する細川氏綱の挙兵、天文17年(1548)に三好長慶が晴元の重臣・三好政長との内訌によって晴元から離反して氏綱を擁立する側に回るなどしたため、政権は安定しなかった。この長慶と政長の内訌に介入したため、長慶が天文18年(1549)の摂津国江口の合戦で政長を討ったのち氏綱を擁して入京すると、晴元は足利義晴・義輝父子を奉じて近江国に逃れた。ここに晴元政権は瓦解、代わって被官であった三好氏が台頭することとなり、かつて栄華を誇った室町幕府管領・細川氏京兆家の伝統的権威は失われた。
天文21年(1552)1月、義輝は六角義賢の斡旋で細川氏綱・三好長慶と和睦して京都に迎えられたが、この条件として晴元は家督を氏綱に譲り、出家を余儀なくされ、剃髪して心月一清と号した。
その後は若狭国に移り、さらには丹波国に移ってしばしば小規模な奇襲戦を展開して政権の奪回を試みたが成らなかった。永禄4年(1561)5月に至り、長慶との和睦という名目で摂津国富田の普門寺に招かれたが軟禁され、永禄6年(1563)3月1日に病死した。享年50。