木沢長政(きざわ・ながまさ) ?〜1542

畠山氏の重臣。左京亮。河内北半国の守護代。
武勇に優れ、河内北半国守護の畠山義堯に仕える武将でありながらも、足利義維細川晴元三好元長らが大永7年(1527)に和泉国堺に樹立した暫定政権(堺幕府)に重用され、堺幕府内の内訌で元長が離脱したのちには京都防衛の枢要を担った。
享禄3年(1530)に晴元の政敵・細川高国浦上村宗の支援を得て逆襲に転じると支えきれず、翌享禄4年(1531)3月に逃亡したが、同年6月に三好元長らが高国を滅ぼすと(天王寺の合戦)、7月には高国の片腕であった細川尹賢を摂津国富田で討つ功績を挙げ、河内国飯盛城主となった。
しかし、陪臣でありながら晴元に重用されたため、本来の主君である畠山義堯の不興を買うこととなって同年8月頃には手切れとなり、享禄5年(=天文元年:1532)5月には義堯に飯盛城を攻められたが、晴元と結んだ本願寺法主・証如の檄に応えた一向一揆が攻城軍を壊滅させたため、窮地を脱した(飯盛城の戦い)。
この一向一揆は畠山義堯・三好元長といった晴元・長政にとって目障りだった将を討って晴元政権の安定に寄与したが、のちにはその爆発力を危惧するようになり、今度は晴元と共に法華一揆の力を借りて一向一揆の総本山である山科本願寺を攻めたことから、以後は一向一揆と対立した(天文法華一揆)。
天文5年(1536)には大和国に信貴山城を築いて大和国進出の足がかりとし、天文10年(1541)7月には山城国の笠置城を修築して本拠とした。
この頃には晴元から自立して将軍直属の被官になること、あるいは守護職に就くことを企図していたようであり、同年8月に河内南半国守護代・遊佐長教と結んで前河内守護の畠山長経を討ち、さらには晴元より圧迫を受けていた摂津国一庫(一蔵)城主・塩川政年に与して幕府の軍勢を撃退する(一庫城の戦い)などしたため、晴元や幕府首脳と対立するようになった。
天文11年(1542)3月、盟友であった遊佐長教が長政より背反して幕府に通じ、河内守護の畠山政国を逐ってその兄・畠山稙長を擁立すると、長政は政国に加担して稙長を高屋城に攻めようとしたが、3月17日に長教や三好長慶政長ら幕府軍に迎え撃たれて戦死した(太平寺の合戦)。