畠山政国(はたけやま・まさくに) ?〜1550

畠山尚順の子。畠山稙長・長経の弟。通称は三郎。上総介・修理大夫・播磨守・尾張守。法号は後昌院・花園宗貞。河内国高屋城主。
天文3年(1534)、河内守護であった長兄の稙長が河内守護代の木沢長政遊佐長教らによって守護職を更迭され、代って次兄の長経がその職につくが、長経は永らく分裂抗争を続けてきた畠山持国義就系の後裔である畠山在氏と和睦し、天文7年(1538)に政国に河内南半国の守護職、在氏に北半国の守護職が分け譲られた。
しかし領国経営の実権掌握を目論む遊佐長教が天文10年(1541)8月に長経を殺害し、天文11年(1542)3月に再び稙長を河内守護に据えようとする企てがあることを知ると、政国は身の危険を感じて高屋城を出奔して木沢長政を頼り、その属城である大和国信貴山城に逃れた。
この直後の大平寺の合戦で木沢長政を討ち取った長教が河内一国の守護代、長教の奉じる稙長が河内一国の守護に補任されたが、天文14年(1545)5月に稙長が死去すると長教に迎えられて畠山氏家督と河内・紀伊守護職を継承したが、実権は長教が握っており、政国は傀儡の当主でしかなかった。
天文16年(1547)7月、細川氏綱とともに長教に奉じられて摂津国で細川晴元陣営の三好長慶義賢兄弟らと戦ったが敗れ、和議を結ぶ(舎利寺の戦い)。
天文19年(1550)8月、紀伊国にて死去。