畠山持国(はたけやま・もちくに) 1398〜1455

畠山満家の嫡男。室町幕府管領。尾張守・左衛門督。
永享5年(1433)9月の父・満家の死没を受けて畠山氏家督と山城・河内・紀伊・越中国の守護職を相続したが、室町幕府6代将軍・足利義教が持国の異母弟である畠山持永を寵愛したこと、結城合戦への出陣命令を拒んで怒りを買ったことなどから永享13年(=嘉吉元年:1441)1月に家督を持永に譲らされ、領国の河内国に下って出家した。しかし同年6月24日に義教が横死し(嘉吉の変)、その直後に管領・細川持之の主導で恩赦されると持永を追い落し、8月に上洛して畠山氏家督に復帰した。
翌嘉吉2年(1442)8月22日に細川持之のあとを受けて管領に就任、弱冠9歳で7代将軍となった足利義勝を補佐して幕府政治を主導したが、翌嘉吉3年(1443)7月に義勝が没すると、その弟である足利義政を次期将軍に擁立した。
管領就任直後より畠山氏の権勢の増大に努めたが、加賀守護職をめぐる富樫氏の内訌に介入したことなどによって、同じく三管領家のひとつである細川氏との対立が深まった。また、嘉吉の乱以来没落していた赤松氏の再興を企図したため、赤松氏と競合する山名宗全とも不仲になっている。
文安2年(1445)3月に管領職を辞して細川勝元に譲るが、文安6年(=宝徳元年:1449)4月に8代将軍位に就いた足利義政の支持を得て、同年10月に再び管領となる。
持国は長らく男児に恵まれなかったため異母弟の畠山持富を嗣子に定めていたが、文安5年(1448)11月に至ってこれを撤廃し、妾腹の子・畠山義就を次期家督とした。持富は享徳元年(1452)に没し、享徳3年(1454)4月に被官の神保・椎名らが持富の遺児・畠山義富を家督に就けようとする陰謀が発覚したためこれを討ったが、この内訌を畠山氏を弱体化させる好機と見た政敵の細川勝元が介入し、同年8月には勝元やその岳父である山名宗全の支援を得た義富陣営が逆襲に転じたため、隠居を余儀なくされた。
この内訌の最中の享徳元年11月には再び管領職を細川勝元に譲り、享徳4年(=康正元年:1455)3月26日に没した。享年58。法名は光孝寺殿立源徳本。