嘉吉(かきつ)の変

惣領の家督者を意のままに挿げ替えるなど、専制人事を揮うことで諸大名のみならず公家・寺社などからも「薄氷を踏む思い」と恐れられた室町幕府6代将軍・足利義教が、守護大名・赤松満祐の所領から播磨・美作国を没収し、寵臣で赤松氏庶流・赤松春日部家の赤松貞村に与えようと画策しているという風聞が流れたのは、永享9年(1437)2月のことであった。
さらには永享12年(1440)3月、その風聞を裏付けるかのように、義教の側近として仕えていた赤松義雅(満祐の弟)が突如として所領を没収され、その一部は満祐にも与えられたが、義雅旧領のうちの摂津国昆陽野荘が貞村に与えられたのである。この昆陽野荘とは、満祐・義雅兄弟の父である赤松義則が明徳の乱での勲功を賞されて当時の将軍・足利義満より賜ったものであり、赤松一族にとっては名誉ある地であった。満祐はこの昆陽野荘が庶家に与えられるのを嘆き、将軍家に懇願したが、ついには聞き容れられなかったのである。
この処遇に、明徳の乱における山名氏や応永の乱の大内氏、また最近には将軍の意向に従わなかったとして討たれた一色義貫や土岐持頼と同じ行末を辿ることになるのではないか、との危機感を募らせた満祐は、義教の排除を企てる。

嘉吉元年(1441)6月24日、満祐の嫡男・赤松教康結城合戦の戦勝祝いと称して義教を京都西洞院二条上ルの赤松邸に招いた。満祐は前年より「狂乱」と称して隠居していて当日は赤松氏在京奉行人である富田性有入道宅にあり、接待の主人役は教康が務め、叔父の赤松則繁がその補佐にあたった。
この日は雨が降って肌寒かったというが、義教は公卿の三条実雅や管領の細川持之山名宗全畠山持永・細川持常・大内持世・京極高数・山名熙貴・赤松貞村らの守護や近習を従えて未斜刻(午後3時ころ)に赤松邸に入った。
赤松邸の庭に拵えられた能舞台では猿楽が催され、その舞台が三番まで進んだ酒宴の最中に突如として甲冑に身を固めた武士数十人が乱入し、無防備な義教一行を襲ったのである。
同席していた細川持之・細川持常・一色教親・赤松貞村らは即座に脱出して無事であったが、義教はたちまちのうちに討ち取られ、山名熙貴もまた討死して首級を挙げられた。細川持春・大内持世・京極高数らは刀を取って防戦したが、いずれも深手を負い、京極高数は間もなく、大内持世は辛くも逃れるも1ヶ月後に自邸で没した。

手筈どおりに義教を討ち果たした教康らは富田邸に控えていた満祐を迎え入れ、幕府軍の襲来に備えて屋敷の防備を固めた。しかし幕府や諸大名らも突然の事態に動揺し、情報も錯綜していたこともあり、すぐに追討軍を編成することができなかったのであろう。
しばらく待っても幕府に動きがないことを知った満祐らは夕刻には屋敷に火を放ち、義教の首級を携えて本国の播磨国へと撤退していったのである。

この嘉吉元年に起こった将軍殺害事件を「嘉吉の変」と称す。
また、この年の7月半ばには赤松氏追討のために幕府から軍勢が差し向けられることになるが、この追討軍と赤松氏の抗争を「嘉吉の乱」と称す。