赤松教康(あかまつ・のりやす) 1423〜1441

赤松満祐の嫡男。通称は彦次郎。別称を教祐。
父の満祐が赤松氏の行末を憂えて室町幕府6代将軍・足利義教の排除を企てるとこれに同調し、嘉吉元年(1441)6月24日、結城合戦の戦勝を祝うという名目で義教を京都の赤松邸に招き、満祐に代って義教らを接待した。そしてその宴席の最中に義教を討ち果たすという計画を叔父・赤松則繁とともに実行(嘉吉の変)。その後は幕府軍の襲来に備えて赤松邸の防備を固めたが、追討の動きがなかったため、満祐や一族の武将とともに本国の播磨国に下向した。
実質的に7月末になって始まった赤松氏の追討戦(嘉吉の乱)においては大手(正面)にあたる須磨・明石方面の防衛を受け持ち、蟹坂(和坂)に本陣を置いて幕府軍の攻撃をよく支えたが、8月下旬に北方の但馬口の防衛線が破られたという報せを受けると、坂本城へと撤退して赤松方諸将と合流した。しかしその坂本城も3日ほどで陥落し、最後の拠点となった城山城もが落城間近となった9月10日、満祐の「再起を期せ」との厳命を受けて則繁とともに城から落ち延びた。
その後は室津から海路を経て、妻の実家である伊勢国司の北畠氏を頼って伊勢国へと下ったが、援助を受けられなかったばかりか、隠匿の発覚を恐れた北畠氏によって9月28日(または29日)に殺害された。享年19。