足利義教(あしかが・よしのり) 1394〜1441

室町幕府第6代征夷大将軍。在位期間は応永35年(=正長元年)〜嘉吉元年(1428〜1441)。3代将軍・足利義満の四男。4代将軍・足利義持の同母弟。明徳5年(=応永元年:1394)6月13日に生れる。
応永10年(1403)に出家して青蓮院に入り、義円と称す。応永26年(1419)に大僧正・天台座主となり、僧界の最高位に達した。また、准三后にも任じられている。
応永32年(1425)に5代将軍・足利義量が死没した後は前将軍の義持が将軍職を代行していたが、その義持も後継者を決めないままに応永35年1月に没したため、管領・畠山満家以下の重臣らの相談によって、義満の子でいずれも出家していた青蓮院義円・虎山永隆・大覚寺義昭・梶井義承の中からくじ引きによって選ぶこととなり、岩清水八幡宮の神前でのくじ引きの結果、義円が次期将軍に決まった。
義円は3月12日に還俗して義宣(よしのぶ)と改名し、従五位下・左馬頭に任じられた。のち、義宣の名が「世を忍ぶ」に通じるとして嫌い、義教と改名。
正長2年(=永享元年:1429)3月に元服、参議・左近衛中将を経て征夷大将軍に就任したが、政務は正長元年4月11日より執りはじめている。
就任早々から権力の集約を追求して独裁政治を断行、その影響は幕府内外の武家のみならず、朝廷や公家、寺社勢力にまで広く及んだ。
幕府の機構においては、正長元年5月には廃止されていた評定衆・引付頭人の職制を再設、翌年8月に管領の管轄下にあった賦別奉行を将軍直属に移し、管領の有する権力を抑制して将軍の権威を高めた。政務や訴訟の決裁においても将軍臨席の御前沙汰で行い、とくに訴訟に関しては奉行人の意見状に基いて裁断する意見の制度を整え、将軍の意向が反映されやすい機構へと再編を進めた。こうして将軍と奉行人によって幕政を運営する体制が固められるとともに、将軍に直属する一部の御家人を奉公衆(五番方)として編成し、番頭によって統率される親衛隊の体制も整備されていった。
幕府の影響力の届きにくい遠隔地の勢力にも目を光らせ、自立性を強めつつあった関東公方・足利持氏を牽制するために陸奥国磐城の篠川公方や白河の結城氏、常陸国の大掾氏ら京都扶持衆を優遇し、鎌倉府管轄域と境界を接する信濃国の小笠原氏や駿河国の今川氏らの守護を援け、永享4年(1432)9月には「富士遊覧」と称して群臣を率いて駿河国に下向して威を示している。また九州の大友・少弐などの諸大名を抑えるために周防・長門国の大内氏を利用を目論み、中国地方や四国の武家に大内持世の支持を命じて九州の統一を進めた。
乱れた朝廷の綱紀粛正にも意を注ぎ、禁裏に小番の制を設けて宿直させるなど、出仕の規定を厳格に定めた。男女関係の不祥事件にも厳罰主義を貫き、男女別室の制度を設けている。
山門(比叡山延暦寺)の統制にも高圧的に臨み、とくに永享5年(1433)に始まる山門衆徒による12ヶ条の衆議に関する訴訟においては、山門側が幕府の下した裁許を不服とすると山門弾圧の姿勢を示し、軍勢を動員しての示威行動でもって同年12月に屈服させている。しかし一部衆徒の反抗はなおも続いたため、翌永享6年(1434)8月頃には再び軍勢を派遣して交通路を遮断するという包囲戦略を展開。これに恐れをなした山門衆徒が10月に至って降参を請うが容易に許さず、永享7年(1435)2月に和睦に応じるとして主謀者3人を欺き招いて斬首したため、20人以上の僧が根本中堂に火を放って自殺する事件に発展した(延暦寺根本中堂自焼事件)。
永享10年(1438)8月には関東公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立を好機として持氏討伐の動員令を下し、翌年2月に持氏を自害させた(永享の乱)。さらにその翌年の永享12年(1440)には結城氏朝が持氏の遺児である安王丸春王丸兄弟を迎えて下野国結城城に挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月に陥落させて春王丸らを殺害した(結城合戦)。
これらの事象のように、将軍の意向に従わない者は容赦なく弾圧・粛清するという類稀なる独裁性は「薄氷を踏む時節」と万人に畏怖されたが、その反面、従前では介入が困難であった朝廷や山門といった権力機構の抑圧を果たし得たのである。
嘉吉元年6月24日、赤松満祐・教康父子より「結城合戦の戦勝祝い」と称して赤松邸に招かれたが、その宴席の最中に暗殺された(嘉吉の変)。享年48。法号は普広院善山道恵。
満祐らによって持ち去られた義教の首は播磨国の安国寺に葬られ、現在の兵庫県東条町にある安国寺裏手の宝篋印塔は義教の首塚といわれる。