足利安王丸(あしかが・やすおうまる) 1429?〜1441

第4代鎌倉公方・足利持氏の二男。足利義久の弟。足利春王丸成氏の兄。大御堂殿と称されていたことから、鎌倉の勝長寿院の門主になっていたとみられる。
父・持氏が関東管領の上杉氏一派との抗争(永享の乱)で敗れ、永享11年(1439)2月に持氏と義久が自害に追いこまれると、安王丸は弟の春王丸とともに下野国日光山に逃れたが、翌永享12年(1440)はじめ頃には岩松持国らによって擁立され、山内上杉憲実・扇谷上杉持朝の討伐を大義名分に掲げて反上杉勢力の糾合を図り、同年3月3日に常陸国中郡荘木所城に拠って決起した。
3月13日には常陸国小栗、18日には伊佐を経て西へと進撃し、21日には結城氏朝の居城である下総国結城城に入って、上杉軍や上杉方を支援する幕府の軍勢と戦った(結城合戦)。
安王丸らはこの結城城に拠って周辺の下野国祇園城や長沼館などを攻撃、与同勢力も上野・武蔵国で抗戦しているが目だった戦果を挙げることができず、7月末頃に上杉軍主力が結城城に着陣すると離反者が出たことなどもあって形勢は上杉方に傾き、嘉吉元年(1441)4月16日に上杉・幕府軍の総攻撃を受けて落城した。
安王丸らは女装して脱出を図ったというが捕えられ、京都に護送される途次の美濃国垂井の金蓮寺で、5月16日に春王丸とともに斬首された。享年13とされるが、享年や安王丸と春王丸の長幼についても異説がある。