結城氏朝(ゆうき・うじとも) 1402〜1441

下総国結城氏第11代当主。第9代・結城基光の子で小山氏に入嗣した小山泰朝の長男。通称は七郎。従五位下・中務大輔。下総国結城郡結城城主。
基光の嫡男・満広が応永23年(1416)に嗣子なく没すると、その後継として結城氏に入嗣し、永享2年(1430)に基光が没したのちは名実ともに結城氏当主となる。
永享の乱における動向は不詳であるが、永享12年(1440)3月に関東管領・上杉氏の専権を不満として足利持氏の遺児・足利安王丸春王丸の兄弟が下野国芳賀郡茂木城で挙兵するとこれに応じ、安王丸兄弟を居城の結城城に迎えて上杉氏や幕府と対抗した(結城合戦)。氏朝は永享の乱後には幕府に対して忠節を働く旨の起請文を提出し、安王丸・春王丸兄弟の入城直前には安王丸方の武士を討ち取ってその首級を幕府に送っていたことから、当初は幕府方であったが安王丸に頼られたために受け入れざるを得なくなったという状況が推測される。
古河城・関宿城などを防衛線として守りを固めるとともに、反上杉氏の呼びかけに応じた宇都宮伊予守・岩松持国佐竹義憲や嫡男・持朝らと共に1年以上に亘る籠城戦を展開したが、上杉清方らの率いる10万ともいわれる大兵力の攻囲軍によって、翌嘉吉元年(1441)4月16日に結城城は陥落。最期は上杉清方の陣所を目指して攻め入ったが、力尽きて自刃したと伝わる。享年40。法名は藤山明永。