岩松持国(いわまつ・もちくに) ?〜1461

上野国新田荘の国人領主。岩松満春の子。岩松満国の孫。幼名は土用安丸。左馬頭・右京大夫・左京大夫。官途の右京大夫の唐名から京兆家と称される。
応永24年(1417)、伯父にあたる岩松満純が前年からの上杉禅秀の乱に加担して敗死したことを受けて、満純・満長・満春兄弟の父である岩松満国は満純の子・家純を廃嫡し、応永26年(1419)2月に満春の子である土用安丸へ上野国新田荘以下の所領を譲った。その後、岩松氏の惣領職にあったと思われる満長の養子となり、応永30年(1423)5月に満長からも所領を譲られて土用安丸が岩松氏惣領となった。
この一連の措置は、鎌倉府に叛いた満純の系統を排除し、禅秀の乱に関わらなかった系統の者を惣領に立てることで、鎌倉府へ恭順する姿勢を表したものであろう。のちに土用安丸は元服して持国と名乗っているが、この諱は鎌倉公方・足利持氏から「持」の一字を拝領したものと思われる。
永享7年(1435)6月頃に足利持氏が常陸国茂木城の長倉義成を攻めるにあたってはこれに従軍して大手軍の大将となっているが、その後の永享の乱には出陣した形跡が見られない。
永享12年(1440)の結城合戦においては持氏の遺児を擁立した結城氏朝方に与するも敗れ、その後はもうひとりの持氏遺児・足利成氏の擁立に尽力し、成氏が宝徳元年(1449)に5代目の鎌倉公方に就任すると、重く用いられた。
享徳の乱においても当初は足利成氏(鎌倉公方)方として行動したが、長禄2年(1458)に足利政知が関東に下向してくると、その麾下として参じた岩松家純の斡旋を受けて幕府方に転じ、翌長禄3年(1459)10月の上野国羽継原の合戦には幕府方として参陣している。
この持国の転身により岩松氏は幕府方に一本化されることになったが、岩松氏内部においては惣領職をめぐって持国と家純の根深い対立があったとみられ、持国は寛正2年(1461)5月に足利成氏方に内通したとされて、子の次郎と共に家純に討たれた。