結城(ゆうき)合戦

永享の乱において鎌倉公方・足利持氏が自害したため、関東地方の公方は不在となった。関東管領・上杉憲実も隠退の意思を固めており、関東地方の政局は幕府が執っていたが、依然として持氏に与した諸将の遺恨はくすぶりつづけていたのである。
そして持氏自害の翌年にあたる永享12年(1440)3月3日、持氏の遺児・安王丸春王丸が常陸国木所城(別称:吉所城)にて上杉憲実の討伐と鎌倉公方の復活を目論み、挙兵に及んだのである。そして3月20日になるとこの兄弟は下野国の結城氏朝を頼り、その本貫地である結城城に入城した。
これらの動きは小山持政によって、いち早く幕府に通報されている。これを受けた幕府は、伊豆国に隠退していた上杉憲実に復帰を求めた。憲実は隠退していたとはいえ、求心力や影響力においては関東随一の実力者である。「遅滞するならそれまでの功を無にする」とする恫喝にも似た幕府からの要請を受けた憲実は鎌倉に戻り、5月11日には神奈川まで出陣した。
他にも山内上杉清方・扇谷上杉持朝・犬懸上杉持房、駿河国の今川範忠、下野国の宇都宮持綱、信濃国の小笠原政康、甲斐国の武田信重、越後国の長尾実景なども幕府の命令を受け、総勢10万ともいわれる軍勢で結城城を目指して進発した。

結城城はその周りに「大船も浮かぶ」ともいわれる巨大な堀を構え、城側の岸には乱杭や逆茂木を備えた堅城である。その城に持氏遺臣の木戸持季・一色予六郎・小山広朝・桃井憲義・岩松持国らも入城し、防備を固めたのである。その結城城を古河城や関宿城、野田砦などの支城群が連携をとって支援する態勢であった。
戦端は結城方の岩松持国・桃井憲義による小山氏の居城である小山城を攻撃することによって開かれた。
もとを辿れば小山・結城・白川氏は同族であり、勢力の伸張に伴ってそれぞれが分立したものであるが、この結城合戦において小山・白川氏は幕府方として参戦している。また従軍した諸氏の相関としては、結城方は主に結城一族に加えて、かつて足利持氏に与した有力武家の庶子らが目立ち、対する幕府方は上杉一族と関東管領に与した一派、幕命を受けた守護大名らによって構成されており、まさに永享の乱の遺恨を引きずったという色合いの濃い構図である。
幕府軍は防衛網を切り崩しながら進軍し、7月下旬から8月上旬にかけて結城に着陣した。そして結城城を包囲し、兵糧攻めに取り掛かる。
大軍を擁する幕府方であったが、未だ鎌倉公方の威光は重く、持氏の遺児を戴く結城城を攻めることに抵抗感を持つ武将もあり、攻めあぐねていたようである。大きな遭遇戦・攻城戦もなく、包囲を続けたまま年を越して永享13年(=嘉吉元年:1441)になった。
この頃になると結城城の兵糧も底をつきはじめ、4月16日に至って幕府軍は総攻撃を敢行した。このとき結城氏朝は城から打って出て上杉清方の本陣を目指したが力尽き、「さじき塚」と呼ばれるところで自刃したという。また時を同じくして城の櫓から火があがって延焼、結城城は落城した。
総大将の安王丸と春王丸は女装して脱出を図ったが長尾実景に捕えられ、京都に護送される途中の5月16日、美濃国の垂井で斬られた。結城城に籠もった残党たちは、落城と同時に常陸国や南陸奥に逃れる者が多かったという。