長尾実景(ながお・さねかげ) ?〜?

越後守護・上杉氏の重臣。越後守護代・長尾邦景(性景)の子。右京亮・因幡守。
在京する越後守護の上杉氏に代って守護代の長尾氏が越後国内の統治を担っていたことから威勢を揮うようになり、応永30年(1423)には守護方の山浦上杉頼方らと戦った(越後応永の乱)。
永享10年(1438)から翌年にかけての関東管領・上杉憲実と鎌倉公方・足利持氏の抗争(永享の乱)においては将軍・足利義教の要請を受け、関東管領陣営を支援して出陣。
永享12年(1440)に持氏の遺児である足利安王丸春王丸兄弟が下総国結城城主・結城氏朝の後援を受けて兵を挙げた際(結城合戦)にも、幕府から追討軍の総大将に任じられた上杉清方に従って関東に出陣し、抜群の軍功を挙げた。同年9月26日の結城城福厳寺口の戦いにおいて将軍から感状を賜り、以下11月1日、11月6日、11月21日、永享13年(=嘉吉元年:1441)1月25日と立て続けにその戦功を認められて感状を得て、のちには赤漆の輿に乗ることを許されるほどの絶大な信任を得ている。
また、この戦いにおける結城城総攻撃に際しては結城方の総大将に擁立された足利安王丸・春王丸兄弟らを捕える殊勲を挙げ、この2人を京へと護送する最中の5月16日、義教の命を受けて美濃国垂井で2人を殺害、その首を京都へと送っている。
この直後に幕府は結城方に与した常陸国の佐竹義憲討伐を企てているが、これに際しても実景は下野・常陸国への出陣を命じられており、それらの勲功として同年12月29日付で相模国東郡河入郷(龍崎右京亮跡)の地を幕府より与えられている。
文安元年(1444)から3年(1446)にかけては、越後守護代としての事績が見られる。
しかし宝徳2年(1450)頃、越後守護に就任した上杉房定より父・邦景とともに追討を受けることとなり、邦景は11月に自刃、実景は信濃国に逃亡した。おそらくは持氏の遺児で安王丸・春王丸の弟でもある足利成氏が復権し、成氏からの働きかけがあったものと推測される。
享徳2年(1453)には越後国への侵入を図り、6月25日に根地谷で房定勢と戦ったが敗れた。
生没年ともに不詳であるが、文正元年(1466)6月3日に将軍・足利義政が房定に対して実景与党の討伐を要請する内書を下しているため、その頃までは生存していたことが窺える。