上杉房定(うえすぎ・ふささだ) ?〜1494

越後国上条上杉氏・上杉清方の嫡男。従四位下・左馬助・民部大輔・相模守。越後守護。
若年時の事績は不詳であるが、『鎌倉大草紙』では永寿王丸(長じて足利成氏)を擁立して鎌倉府の再興に尽力したとしている。
文安6年(=宝徳元年:1449)2月に従兄弟で越後守護であった上杉房朝が実子なく病死したことを受けて越後守護に就任し、宝徳2年(1450)に京都から帰国し、同年11月には専権を揮っていた越後守護代の長尾邦景実景父子を駆逐して越後国の支配力強化に意を注いだ。
享徳3年(1454)末に勃発した享徳の乱においては、幕府からの命もあり、従兄弟で関東管領の山内上杉房顕を支援して関東に出陣、長期に亘って在陣した。当初は上野国白井城に在陣したものと思われる。享徳4年(=康正元年:1455)6月には上野国の三宮原、康正2年(1456)9月には武蔵国の岡部原、長禄3年(1459)10月には武蔵国の太田荘、次いで上野国の海老ケ瀬や羽継原で足利成氏の軍勢と戦っているが、戦果は捗々しくなかったようである。
寛正2年(1461)12月には、将軍・足利義政より長陣を労う書状を受けている。
寛正7年(=文正元年:1466)2月に上杉房顕が没すると、二男の龍若丸(長じて上杉顕定)を養子に送り、関東管領を輩出する山内上杉氏との結びつきを強めた。
房定がいつまで関東に滞陣していたかは不詳であるが、文明3年(1471)3月には越後国より関東に出陣しているから、このときまでには帰国していたことがわかり、関東には長子の定昌を派遣していたと思われる。
文明12年(1480)には幕府と足利成氏との和睦を推進し、14年(1482)にはこれを成功させている(都鄙合体)。文明18年(1486)3月には幕府より都鄙合体の功績を高く評価され、従四位下・相模守に叙任された。相模守とは鎌倉幕府の執権にしか与えられないという破格の待遇であったとされる。
長享元年(1487)より始まる山内上杉顕定と扇谷上杉定正との抗争(長享の乱)において、顕定を支援するため定昌を関東に派遣したが、長享2年(1488)3月に突然に定昌が突然に自刃したために自ら兵を率いて出陣、5月には相模国小田原や七沢で、11月には武蔵国高見原で定正と戦った(高見原の合戦)。
明応3年(1494)10月17日に死去。法名は長松院殿慶泉常泰。
風雅の道に通じ、文芸を好んだという。そのため応仁の乱以後は京都の文化人たちが戦乱を避け、相次いで越後国を訪れたという。房定自身も晩年に常泰と号して句を詠み、歌人・宗祇が撰した『新撰菟玖波集』にもその作品が収められている。